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文京区の総合学習塾「言問学舎」の舎主であり、小説家・歌人でもある小田原漂情の作品をご紹介いたします。

三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 六.志津川の海 E <完結篇>

2018年03月09日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。最終章「志津川の海」完結であり、『三陸の鉄路よ永遠に‐たまきはる海のいのちを』全体の完結篇であります。「志津川」は、あの日、町の人々に避難を呼びかけつづけ、ご自身は避難が間に合わずに命を落とされた南三陸町職員の方がその場にいらした、南三陸町の中心地だった旧町名であるとともに、あの海をたしかにあらわす「海」の名称であると考えて、最終章の章題とさせていただきました。

 あの日から間もなく満七年を迎えるいま、わたくしの最大限の営為として、小説『三陸の鉄路よ永遠に‐たまきはる海のいのちを』の全篇を公開させていただきます。

 六.志津川の海 E <完結篇>

 志津川の駅には、二面の島式ホーム(注8)がある。昭和五十二年に新しく開通した区間だから、気仙沼線の中間の拠点として作られたものであろう。ホームから階段を下り、海側へ抜けたところに、小さな改札がある。駅前には目立った店や施設などはないが、海に向かって開かれた町にのぞんでいることがよくわかる、明るい駅である。三陸では、川が海へ注ぐところの平地にひらけた集落が町へと発展し、そこに駅が作られている場所も多いのだが、一方で線路を通すことのできる地形もまた限られているから、このような位置関係にも、英介としては最初から合点が行った。
 「さあ、海を見に行こうか。志津川の海を。」
 「ええ。」
 英介は、気仙沼からの帰り道に、一度ここで下車して、歩いたことがあった。美しい海の眺めが印象的だが、観光地化していない、おだやかな町の様子が好きだった。
 早希子が日本へ帰って来ることとなり、手紙や電話であらかたの事情もわかって、自分自身の気持ちは固まったが、当の早希子と、どのように今までのこと、お互いの気持ち、そしてこれからのことを話せばいいのか、はじめは大いに悩んだのだった。まして、早希子は日本に帰らなければ、自身がもっとも危惧していることへの答えが見出せないし、手紙や電話では、そのことはうまく伝えられないのだと言った。
 あれこれ考えるうち、ふと英介の脳裏に浮かんで来たのが、この志津川の海だった。親しくなじんだ三陸の、ほかの場所でなく、なぜこの志津川を思ったのかは、実のところ英介自身にも、よくわかっていない。しかし、確たる理由はないけれど、その場所が一番良いのだという確信のようなものだけは感じられ、早希子と再会の段取りを相談する中で、この志津川行を提案したのだ。
 早希子は三陸まで行くと言うので、はじめは驚いた様子だったが、彼女自身、帰国して英介と会うことに大きな選択をゆだねるつもりだからと言い添えて、承知したのであった。
 一度来ただけの記憶を頼りに、見覚えのある道を進んで行くと、小さな川に出る。その川の流れゆく先を眺めれば、海はもう、すぐ手の届くところにあると知られた。
 「すてきなところね。」
 「疲れてないかい。少し、歩いてもいいかな。」
 「ええ、平気よ。」
 平日の昼過ぎだから、町を歩く人の姿は少ない。早希子はときどきまぶしそうに、額のあたりに手をかざしている。英介は、いつ本題を切り出そうかと考え出し、そうすると、車中のようにいろいろと話すことができなくなった。早希子も少し疲れたのか、黙しがちである。
 二人をみちびいた川が海に尽きるあたりは、片側が公園、片側が漁港になっている。英介は、外海の見えるところでゆっくり話をしようと思い、漁港の手前を横切って、小さな島の見える、湾の左手の小山の先端を目指して行った。途中足もとの悪いところがあったから、すっと早希子の手をとると、彼女はしっかりとにぎり返して、微笑んだ。
 右手に志津川の港と町、左に外海へつながる志津川湾の全容を見渡せる浜の斜面に腰を下ろすと、早希子は小さくため息をついた。
 「ごめんね、だいぶ歩かせてしまったみたいだ。大丈夫かい。」
 「いいのよ。とうとう来たのね、あなたがずっと言っていた、志津川の海に。」
 「ああ、とうとう来たんだ。」
 とうとう君と二人で、来ることができたんだ、と言う言葉が出かかったのを、英介は押しとどめた。それにしても、いくたび三陸の海をたずねたことだろう。そのほとんどは、一人で早希子の俤を追う旅だった。四か月前、はじめて早希子と連絡がついてから、陸前高田、気仙沼、さらに唐桑と歩き、早希子への思いを確認した。そして今日、早希子と二人で、この志津川の海をたずねて来た。
 あと一つ、早希子を迎えるための問題をクリアすれば、早希子との新しい人生がはじまる。はたして早希子はこの日本に、戻る覚悟が持てるだろうか。昨日、今日とあわただしく動いて来て、まだその答えを求めるのは早いのではないか。
 いや、しかし早希子はもともと、決断力に富んでいた。今回も、ここへ来ることで何かを選択すると、言い切ってもいた。話さなければ。だが早希子が迷うなら、自分はまだまだ、待ってもいい。どうせ八年も、待った仲だ。とにかく早希子の思いを、聞いてみなければならない。
 しかし、いざ早希子にそのことを問おうとすると、どうしても、うまい言葉が見つからないのだ。旅路をともにして来れば、自然に聞けるだろうと高をくくって、ここのところを何と言うのか、そこまでは考えていなかった。さあ、どうしたものか。
 思いあぐねていると、トンネルを抜けて来た一時間あとの気仙沼行きの列車が、志津川の町へ入ってゆくのが見えた。これまで助けつづけてくれた三陸の海と、三陸の鉄道の、そのゆるぎない姿が、これまでと同じように、英介に力を与えてくれる。
 ここまでずっと、早希子の気持ちを大切にし、切り出すタイミングをおしはかって来たつもりだが、本当に大事なことは、いつかどこかで、自分がはっきりさせなければならない。英介は、早希子の気持ちを問いただすより、ストレートに自分の本心を伝えることがまず必要なのだと、臍(ほぞ)を固めた。そして心もち居ずまいを正して、早希子に呼びかけた。
 「早希ちゃん。」
 折りからの強い風が、自分の声をどこかへ吹き流してしまったかと、英介は思った。しかし早希子は、ほんの少しの間、遠い海のかなたに目を注いでいたかと思うと、やがて静かに振り向いた。そして、さいぜんからの英介の思いを知っていたのか、あるいは何とはなしに誘われたものか、アメリカでの彼女の痛みの核心にふれる部分を、問わず語りに話しはじめた。
 「昨日、お昼の時に言った、日本人のいやなところ・・・。それはね、もう経済でアメリカを追い越した。ジャパン・アズ・ナンバーワン(注9)とか、そんなことを言っていばっていて、お金がすべて、自分たちが一番だ、なんていう顔をしているところだったの。とくにアメリカに来て、わたしがアルバイトしていたような店で遊んでいる人たちは、そうだったわ。」
 早希子の表情は、苦しげだ。英介は、自分も精一杯寄り添うのだという気持ちを込めて、真剣な表情で早希子に向き合うほかなかった。
 「もちろん中には、わたしのような学生がああいう店でアルバイトをしていることを心配してくれる、いい人もいるにはいたけど、でもほとんどの人は、お金さえ出せばなんでもできる、そんな勘違いをしている人ばかりだと、わたしには思えたの。」
 英介にも覚えがあるが、深い苦しみを知ることのできない他者が、何を言っても、それは空疎な言葉にしかならない。だから英介は、早希子の独白をだまって聞きとろうとする。
 「いちばん悲しかった、絶望しそうになったのは、そんな羽振りのいい、けれども人としては最低の人格だと思った人が、父の会社のもと部下だとわかった時。その時は、とても冷静ではいられなかった・・・。マネージャーにわけを話して、その席からは外させてもらったけど、そうでなかったら、自分がどうなっていたかわからないわ。」
 早希子はそこで、一度言葉を切った。そして大きく息を吸いこむと、今度は消え入るような細い声で、言葉をつなぎ出した。
 「こわかったのよ、日本に来るのが。日本に帰って、あなたに会うこと、それがわたしの唯一の希望だったのは、間違いないけれど、その日本で、おなじような現実を見てしまったら、わたしにはもう、どこにも行くところがない・・・。それがこわかったの。」
 早希子は一度英介の目に焦点を合わせると、すぐに視線を落とした。英介の口から、ずっと早希子のために考えつづけ、またその時をはかりつづけて来た言葉が、自然にあふれ出した。
 「早希ちゃん、いや、早希子・・・。僕は君に、このままずっと日本で暮らして欲しい、そう思っている。もちろん、君の気持ちは、僕なりに少しずつ、理解して来たつもりだ。だが、ほかにどんなことがあっても、僕と君が二人で生きて行く、それ以上に僕たちのためにいいことは、ないと思う。君にとって、この日本は、いやこの僕は、帰って来るべきふるさとに、なれないだろうか。」 
 早希子は少しだけ、顔を上げた。だが平生強い意志の光を見せているその瞳は、弱々しく伏せられ、何かに怯えているように受けとれる。英介は、これまでの自分の覚悟が試されるのは今だと思い、また現在自分が持っているものをすべてなげうってでも、早希子を守ってやりたいと感じていた。言葉にも、おのずと力が入った。
 「僕たちの、いや、僕のことなんかいいんだ。君の苦しみがうすれて、君が昔のように輝いて生きてゆくためになら、僕は、どんなことだってできる。たしかに今、日本は国内でも、何かと威勢がいいけど、でも日本という国の本質は変わらないと、僕は思う。きっと君も、こっちでの暮らしに戻れば、だんだんもとの気持ちに、戻れるんじゃないだろうか。もちろん僕は、そのために僕のすべてを懸ける。早希子、どうか僕を、信じて欲しい。」
 早希子は英介の言葉を聞き終えると、海のおもてに見入りながら、ぽつりぽつりと語り出した。
 「ほんとうのところは、まだわからない・・・。でも、こんなに美しい海や山や、田んぼがあって、そして何より、英介さん、あなたがそばにいてくれるなら・・・。もしかしたら、わたし、やっていけるかも知れない・・・。」
 英介は、何も言わずに、強くうなずいた。早希子はようやく目を上げて、英介と海とを見くらべるようにしながら、しずかにつづけた。   
 「父も母も、向こうを発つ前の晩に言ってくれたわ。早希子にはかわいそうなことをした、だから日本に帰って、いい方向が見つかるなら、好きなようにすればいいって。」
 英介は、自分自身の一番底の方から、愛する者を守るためのとめどない力が湧いてくるのを感じた。それは眼前の海が、ずっと英介をささえてくれたこの三陸の海の力が、与えてくれるようにも思われた。考えぬいて来たのではない、自然な思いが、しずかな力とともにつむぎ出された。   
 「このみちのくの・・・三陸の海が、君を待つ心を育ててくれた。君がいるはずのアメリカにつながる海、この海こそが、君を待ちつづける強さを、はぐくんでくれたんだ。ほんとうは、君を連れて行きたい場所が、ほかにもたくさんある。だけど今日、君と二人で来るのには、この志津川の海が、一番ふさわしいと思ったんだ・・・。」
 ひと呼吸おいて、英介は早希子を見つめ直し、それからゆっくりと、言葉をつないだ。
 「早希子、この海を見てほしい。この志津川湾は、とてもおだやかな表情をしているだろう。もちろん、強い波に洗われることもあるはずだ。海の持つきびしさから、ここだけが例外などということは、あり得ない。でも、この海の姿こそが、僕が君を迎えるために、いちばんふさわしい場所なんだと、はじめてここへ来た時から思っていた。」
 海からの風が、早希子の髪をなびかせる。彼女は風の動きが髪を遊ばせるのにまかせたまま、だまって英介の言葉を聞いている。
 「僕は、この志津川の海のように、おだやかに君を迎えたい。だから今日、ここへ、君と二人で来たかったんだ。八年前には言えなかったけど、僕はいま、あの時と変わらない、いやもっと強い、たしかな気持ちで、君に言おう。早希子、もう二度と、君を手放したりしない。何があっても、ずっと二人で、生きて行こう。たとえどんなことがあろうとも。」
 早希子は英介の方に向き直り、まっすぐにその目を見つめた。黒目がちな早希子の瞳の中でもつねに漆黒に澄みとおり、しずかにものごとを見つめている中心の部分が、一度収縮したのちに、大きくひらかれた。その瞳はいよいよ黒く澄みわたり、涙こそこぼさないものの、ただ英介だけを見つめている。そして早希子は、体ごと英介の胸にとびこんで、顔をうずめた。さらにひくい声でひと言ずつ、言葉をふりしぼった。
 「帰って来て、よかった・・・。この日本に・・。ううん、あなたのところに・・・。」
 いつしか早希子の体が、小きざみにふるえ出していた。英介は、そのほそい肩をかたく抱き、いく度もうなずいた。
 志津川の海は午後の日ざしをやわらかく照りかえし、二人をつつんでいる。海というものの果て知れぬ大きさ、その秘めたる力のすべてが、人間の営みを肯(がえ)んじているように思われる。その深い慈しみは、英介と早希子の長い年月の彷徨をいたわり、そして静かになぐさめているようであった。

(注1)北陸本線には交直両用の四一九系、また九州には交流用の七一五系が配備された。東北本線など仙台地区を走っていたのは、七一五系一〇〇〇番台である。
(注2)東北本線は、当初利府駅から北進する「山線」がルートだったが、太平洋戦争中の昭和十九年(一九四四年)に、軍事輸送強化の目的から、勾配をゆるめた、現在のルートとなる「海線」が建設された(東海道本線垂井‐関ヶ原間の新線も、同じ理由で同時期に建設されている)。のち昭和三十七年(一九六二年)に、利府以北の「山線」は廃止され、「海線」が東北本線の単一のルートとなったが、利府までの旧線は存続した。
(注3)現在の国府多賀城駅は、平成十三年(二○○一年)の開業。なお「海線」の開通までは、陸前山王駅が旧塩釜線で「多賀城前」駅を名乗っていたという。
(注4)東北本線ほか東日本の鉄道各線は、当初華族などの出資で設立された「日本鉄道」によって多く建設され、のち明治三十九年(一九○六年)、「鉄道国有法」に基づき国有化された。
(注5)古く駅弁には、土瓶のお茶がついていた。形だけを似せたプラスチックの容器は、ビニール臭がしてお茶がまずいとか、高温のお茶を注いだときに有害な成分が溶け出すのではないか、などと言われ、不評だった。その容器も、ペットボトルに駆逐されて久しい。
(注6)東海道本線の茅ヶ崎から横浜線の橋本を結ぶ相模線は、平成三年(一九九一年)に電化された。昭和五十九年(一九八四年)までは、寒川‐西寒川間に支線が存在した。
(注7)鉄道に関する専門用語としては、「汽笛」は蒸気機関車が蒸気によって吹き鳴らす注意喚起音(とその仕組み)を指し、電車、気動車、電気機関車、ディーゼル機関車のそれは、「警笛」というようである。小説においては、厳格にこの区分に従うよりは、情況に応じて書き分けることを旨としたい。
(注8)「島式ホーム」は、プラットホームの両側に線路があり、通常はその両側が乗り場になっている形式のホームのことを言う。志津川駅は、旅客列車の行き違いは二番線を中線とする三線式であり、下りホーム外側の側線は留置線であったと思われる。
(注9)「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉そのものは、昭和五十四年(一九七九年)にアメリカの社会学者が日本型経営を讃えて使った言葉であるが、日本人自身がその言葉を口にする時、そのひびきは決して快いものでなかった。

「志津川の海」および『三陸の鉄路よ永遠に-たまきはる海のいのちを』 完

※長くお目通しいただきましてありがとうございました。物書きの一人として、あの深甚なる災害、かつて経験のない大地震について、表現者としての最低限の営為を為すべく書き上げた小品を、震災後七年を迎えるに当たり、当ホームページで公表させていただきました。
 いまだ旧に復せぬ被災現場も多いと存じます。微力なる一作品ですが、いくばくかの力になりうることのみ、作者として願う次第です。

小田原漂情



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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 六.志津川の海 D

2018年03月06日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。最終章「志津川の海」第5回。いよいよ志津川の海に到着します。次回で完結とさせていただきます。 

 六.志津川の海 D

 前谷地から石巻線と別れ、北東方向へ進路をとる気仙沼線は、一つ目の和渕駅を過ぎるとすぐ、上流の鳴子あたりでは荒雄川と呼ばれている江合川を渡った。すぐ下手の方で、その江合川が大きな流れと合流しているのが見える。
 「あれは旧北上川だよ。芭蕉の頃には、あの流れが石巻まで流れて行く、北上川の本流だったんだ。」
 早希子は興味深そうに、英介の指さす方を見やった。
 「そう、あれが北上川なの。平泉は、どっちの方角になるのかしら。」
 「うん。川の流れとしては、右手の進行方向が上流で、ずっとさかのぼった方だけど、途中、平泉から一関のあたりで、大きく南東に向きを変えているから、方角としては君の方から見て、左前方、北北西、ってところかな。」
 早希子はうなずくと、いっとき車窓から視線をはずし、平泉のあたりを思いやる様子だった。
 「日本を離れても、平泉のくだりを忘れることはなかったわ。あの時、二人で勉強したからかしらね。」
 十年前のあの日、歴史が好きだった英介は、奥州藤原氏三代について調べることに熱中し、早希子は、芭蕉が夏草からいにしえを強く思った心情と背景に関心を持って、それぞれ図書館から借りて来た本を読みこんでは、発見したことを語り合った。そうこうするうちにすっかり帰りが遅くなって、早希子の兄が迎えに来ることとなったのだった。
 英介は、往時のことを早希子がよく覚えていてくれてうれしかったが、めぐり合わせとはいえ、自分の方が結局、芭蕉の詩情と生涯を追う結果となったことを、不思議に思った。そして早希子がアメリカにいても平泉のくだりを忘れなかったことと、自分が芭蕉を卒論のテーマとし、親しくこのみちのくの地になじんだこととの間にも、つながるものがあるのではないかと考えた。しかしそれを今、早希子に言おうとは思わなかった。
 それからしばらく、線路は旧北上川の流れに並行してゆく。もっとも列車の窓から直接、川面は見えないのだが、青々と広がる稲田の尽きるあたりの地形の変化が、そこに川が流れていることを示している。空には白い雲がところどころに散らばって、畦道に軽トラックを停めた農夫が田の中で草取りをしている姿などが、ちらほら見える。のどかな光景である。英介は、芭蕉が石巻から平泉へ向かうくだりで、「遥かなる堤を行く」と書いていることを思い出した。そしてこれはぜひとも教えておかなければと考え、やや勢いこんで早希子に言った。
 「そう言えば、このあたりを芭蕉が歩いたのかも知れないよ。場所ははっきりとはわからないけど。」
 すると早希子は目を輝かせ、はずむような声で答えた。
 「やっぱり、そうよね。たしか、そんな文章があったように思ったんだけど、自信がなくて。あれは、どの章に書かれていたのかしら。」
 「平泉に出る前、石巻のところだったかな。松島から平泉へ行くのに、間違って石巻へ出た、というような記述があって、それから平泉をめざす途中に書かれているのが、どうもこのあたりのことなんじゃないかと思うんだ。卒論の時には、その点には触れられなかったけどね。」
 「そうだったの。でも、うれしいわ。芭蕉が歩いたかも知れないところに、あなたと二人で来ることができて。」
 早希子は微笑んだ。英介も、早希子が芭蕉のこと、昔のことに深い思いを持っているのに驚き、その上自分の専門とはいえ、芭蕉について問われ、答えるというやりとりに、面映ゆいものを感じていた。そしてもし、あのまま早希子が日本にいて、同じように芭蕉を研究したらどうなっただろうと夢想したが、すぐにまた、他愛のない夢想より、今の自分と早希子の現実の方が、有り難く、貴重なことなのだと思い直した。
 列車は川の流れにあわせるかのように、時おりカーブして来たが、御岳堂(みたけどう)を過ぎると大きく東向きに進路を変えた。海が近くなっているためか、日の光がひときわまぶしく感じられる。やがて短いトンネルを抜けるとすぐ長い鉄橋にさしかかり、川幅の広くなった北上川を、ダダンダダン、と音を立ててわたるのだった。
 「見てごらん。あそこで川を、二つに分けているだろう。右に分かれて行くのがさっきの旧北上川、まっすぐ行くのが新北上川だよ。洪水をふせぐために、追波川という支流の流れに、開削した新しい流れを落として、言わば放水路のようにしたらしい。このあたりも、昔から水害に苦しんだ土地みたいだね。」
 「右に分かれる川、ってどこ?よくわからないわ。」
 「ああ、ごめんごめん。あそこに白っぽい、すべり台みたいなのが二つ見えるだろう。あそこが水門になっているんだ。」
 英介の指さす方を、早希子がなおもよく見ようとするので、二人は頬を寄せ合うような格好になった。だが互いに照れなどを感じることもなく、一つのものをそうして一緒に見ていることが、かえって自然なことであるのを確かめ合うような気持ちがあった。
 鉄橋をわたり終えると、左にカーブする大きな築堤で平地に下り、柳津(やないづ)駅に到着した。気仙沼線は当初気仙沼方から本吉までが気仙沼線として開業し、おくれて前谷地からこの柳津までが柳津線として、開業した。さらにおくれて柳津‐本吉間がつながって、気仙沼線として全通したが、その区間の開通は、国鉄最後の地方交通線の新設だったという。
 英介は、何もなければおそらくそんなことも、早希子に話して聞かせるだろうと思ったが、柳津を出るとあと三駅、二十分ほどで志津川である。緊張するわけではないが、早希子にはさして関心もないであろう気仙沼線の歴史を語るより、二人でともにあることを大事にしたいと願う気持ちの方が強かった。
 「これから、少し山の間を通るよ。トンネルもいくつかあるし、次の駅を出たあとのトンネルは、かなり長いよ。」
 早希子はトンネルと聞いて、羽織っているジャケットをちょっと合わせるようなしぐさをした。
 「ありがとう。さっき、トンネルがちょっぴりこわかったのよね。」
 英介は、東北線の車中でトンネルに入るたびに目をつぶっていた早希子の顔を思い出した。以前の意志の強い早希子の印象とは少しちがう、今のありのままの姿があった。
 「今度は単線のトンネルだから、もっと迫力があるよ。特に長いトンネルの時は、窓の外を見ない方がいいかもね。」
 「いやだ、おどかさないで。そのトンネルの時は、教えてね。」
 「ああ、もちろんだよ。」
 柳津の次の陸前横山駅を出て、その長いトンネルをくぐる間、早希子は言葉少なに、英介の方を向いていた。英介は、夏場は窓を全開にしてこうしたトンネルの通過を楽しんだ学生時代を思い出したが、やはり今、そんな話を早希子にする気にはなれなかった。ただ早希子が心細くないように、他愛のない話をしながら、トンネル通過を心待ちにした。
 トンネルを抜けると、行く手の視界が一気に明るくなった。さらに陸前戸倉駅を発車すると「次は志津川、志津川に停まります」というアナウンスが流れて、英介と早希子は顔を見合わせた。ほどなく車窓に、青い海が姿をあらわす。早希子が息を呑む様子に、英介もまた心を躍らせた。
 「これが志津川湾だ。志津川の海だよ。」
 時計を見ると、すでに午後一時だ。上野を出てから四時間以上、列車を乗り継いで来たことになる。早希子もまた同じように時計の文字盤に目を落とし、つぶやいた。
 「遠かったわね。」
 ああ、と返事をしかけて、英介は「遠かった」という言葉の意味に気づき、自分と早希子の左手で時をきざんで来た腕時計を、つくづくと見くらべた。心なしか、早希子の小ぶりな女時計の方が、傷みが激しいように思われる。英介は、この時計をともに身につけてからの十年、とりわけ早希子の渡米後の八年間を、その姿に思い見た。
 そしていよいよ、志津川の町、志津川の海が、二人を迎えてくれるのだ。英介には、今日のこの旅程の目的地に着くのと同時に、三陸の海辺を歩きつづけた長い旅の終着点が、待っているように思われた。

つづく
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 六.志津川の海 C

2018年03月04日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。最終章「志津川の海」第4回、今回を含めあと3回で完結します。 

 六.志津川の海 C

 二人で駅弁を楽しみながらとりとめのない会話をかわすうちに、松山町(まつやままち)という駅に着く。この一帯は、早希子が仙台駅の北で稲田の姿に感激したよりもなお、広大な水田地帯である。英介は、学生時代に太田とよく飲んだ『一ノ蔵』の蔵元が、ここにあることを思い出した。あの頃、この広々とした水田を目(ま)の当たりにしたのは、最初が色づく前の実をたくわえた青い稲穂、次が田おこしの頃だった。そして田おこしを見たその年は、稲が育ち、黄金色に平野のすみずみまでを彩って、さらに刈り取られる季節まで、幾度も往来したのであった。
 「早希ちゃん、長く座っていて、疲れないかい。」
 英介はふと気がついて、外の景色を眺めている早希子に声をかけた。早希子は口もとをゆるめて英介の顔を見ると、かるく首を振りながら答えた。
 「ありがとう、平気よ。飛行機はもっと長かったし、アメリカでは、どこへ行くのにもずっと座りっぱなしだったから。」
 早希子はそう言ってから、すぐまた窓の外に顔を向けて、つぶやいた。
 「このお弁当、あなごもおいしいけど、なんてお米がおいしいのかしら。こんなにすばらしい日本のことが、わたしには、いつから遠い場所になってしまったのかしら・・・。」
 英介は、あえて言葉を発することなく、早希子が見ている稲田の方向へ、視線を添わせた。自分にとっては第二の故郷とも言える穀倉地帯だが、十七の時に日本を離れ、八年ぶりに帰国した早希子の目には、どのように映っているのだろう。ほどなく列車は、英介がはじめて訪れたあの野蒜(のびる)の東側へそそぐ鳴瀬川をわたり、東北新幹線の開業前は東西へ支線を分かつ要衝だった、小牛田(こごた)駅へと近づいてゆく。ここから石巻線に乗り換えて志津川へ向かうのが、今日の二人の目的である。
 小牛田駅の規模は大きい。新幹線の開業以来、長距離の人の流れの多くを古川に譲ったとはいえ、在来線の配線が失われたわけではもちろんなく、ここもまた広々とした水田を擁する平野の中心に、十字路のように行き交う路線と、長大なホームがどっしりと横たわり、旅ゆく者のこころをやさしく迎えてくれる。
 「こごたー、こごたー、こごたー。」
 ゆったりとした駅の放送を聞きながら、英介は早希子をうながして、小牛田駅のホームを踏んだ。過去に幾度か乗り継ぎをした、なつかしい感覚がある。そして英介の蹠(あなうら)には、もう一つ、強く大地を踏みしめるような、新しい感触が加わっている。それは自分自身の決意によるものだと、英介は考えた。
 小牛田での乗り換え時間は、十八分ある。一人だったら、ほんの少しでも改札の外に出て、ビールを買って、というところだが、今日は早希子と二人、のんびり汽車を待つのもいいだろう。
 「早希ちゃん、気動車、いやディーゼルカーで旅したことは、あったかい。」
 上り線側のホームの中ほどにあるベンチに並んで腰かけると、英介は早希子に問うた。早希子は少し考えたあと、記憶をたしかめるように心もち首をかしげ、途中からは英介の同意を求めるような口調で返事をした。
 「横浜の伯母の家の本家が、寒川なのよ、寒川神社のある。そこへ行く時に乗ったのが、たぶんそうだと思うけど。」
 「ああ、それは相模線だから、たしかにそうだよ(注6)。いつ頃のことだい。」
 「たぶん高校に入るか、入らないか、それぐらいの頃だったと思うわ。帰りに兄が、八王子を回って帰ろう、なんて言い出して、ずいぶん長く乗った覚えがあるわ。」
 「それは東京近郊で、ずいぶん風情のある旅をしたもんだね。さすがお兄さんだな。」
 英介は、七年あまりも会っていない俊夫の顔を、なつかしく思い出した。
 「わたしには、何だかあまりよくわからなかったわ。ときどき見える川の様子が、いい雰囲気だな、とは思ったけど。」
 それはそうかも知れないな、と言いかけた英介の耳に、遠くから気動車の汽笛(注7)が聞こえた。はるか左手の前方から、石巻線の列車がやって来るのが見える。新幹線の車中で見た時刻表では、女川(おながわ)からの列車だったと記憶している。時刻表で、女川発という記載を目にした瞬間、英介の脳裏には、はじめて女川を訪れた日の雪江の言葉が、はじけるようによみがえったのだが、隣りで寝息を立てている早希子の顔を見て、まだもう少し、そのことを早希子に話すのは、待とうと思ったのであった。それにしても、四年前、あの女川で、雪江と出会っていなければ、自分は果たして、この日を迎えられただろうか。英介の胸の中に、女川の雪江をはじめ、三陸の海と、そこで出会った人たちとの記憶のこもごもが去来した。
 到着した二輌のディーゼルカーからは、女川や石巻方面からの数十人の乗客が下りて来た。入れかわりに乗りこむのは、まだ十人ちょっとである。このまま前谷地(まえやち)から気仙沼線直通となるので、英介は、あとで海側となる右側のボックスシートに、早希子を連れて席を占めた。
 「これがディーゼルカー、っていうのね。昔のことはよく覚えてないけど、何となく、なつかしい気がするわ。」
 早希子は腰を下ろすと、天井や網棚、それから座席の周辺を見回しながら、つぶやいた。独特のにおいがしている。窓の外には側線が、十数列も並んでおり、その向こうには青々とした水田が、見わたす限りつづいている。天井の扇風機が、音を立てて回り始めた。
 「このまま乗って行くと、途中から気仙沼線に入って、志津川に行くんだよ。発車したら、一時間とちょっとだ。」
 英介は、早希子に説明するつもりで言ったのだが、途中から自分自身に言い聞かせるような気のして来たことが、不思議だった。
 エンジンがひときわ唸りを上げ、その振動がやがて腰のあたりに伝わって、気仙沼行きの列車が小牛田駅を発車した。小牛田から石巻を経て女川に至る石巻線は、途中三つ目の前谷地で気仙沼線を分岐する。気仙沼線の柳津‐本吉間が全通したのは、わずか十一年前の昭和五十二年であり、英介がはじめて志津川をたずねた頃は、そのあたりの各駅では、コンクリートがまだ随所に白さを残していた。あれから何年になるのか、という感慨を、なぜだか英介は覚えなかった。それは目の前に早希子がいる喜びによるのだとも思えるし、二人で志津川をめざして行くことに、ある必然を感じているためのようにも思われた。
 線路は右に大きくカーブして、東北本線と別れてゆく。いよいよ、三陸の海辺に向かう道すじのはじまりである。上涌谷、涌谷と一駅ずつ停車するたびに、英介の身ぬちには、抑えがたい躍動感がみなぎりはじめた。それとともに、仙台駅で早希子と向き合った時に感じた心の疼きが、すっかり消えていることに気がついた。青々と広がる稲田が、早希子の心をなぐさめ、二人を隔てていた壁を取りのけてくれたのだろうか。間もなく自分たちを迎える三陸の海が、おのずからなる答えをもたらすはずだと考えながら、英介は、今度は膝をつき合わせるようにして座っている早希子のことを、これまでのいつにもまして、かけがえのない存在だと感じていた。

つづく
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 六.志津川の海 B

2018年03月02日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。最終章「志津川の海」、第3回です。 

 六.志津川の海 B

 進行方向左、つまり西の方へ高架線で分かれて行く仙山線を見送り、広い仙台駅の車輌基地を離れると、早くも車窓からは、青く伸びそろった稲田が眺められるようになった。ほどなく東北新幹線の高架線も、真一文字に北をめざして、遠ざかってゆく。早希子が、まぶしそうに右手をかざしながら、窓の外に目をやった。梅雨の晴れ間に青い稲がよく映えている。すっかり夏の日ざしのようである。
 「やっぱり、日本の風景ね。心がなごむわ。」
 そうつぶやいた早希子の横顔を、英介は、しばらく見守った。昨日、上野で話したことが、気にかかっている。早希子は手紙で、日本へ帰ることに自信がないと言ってよこしたが、それは、アメリカでの生活で、日本人のいやなところを見せつけられてしまったことによるのであり、実際に帰国して日本で過ごしてみなければ、自分が日本で暮らしていけるかどうか、わからないというのであった。
 手紙で苦しい過去を打ち明けられていたから、英介はわがことのように早希子の気持ちを慮ったが、自分も日本人である。アメリカになじむことができなかったと、早希子は手紙に書いていたが、生まれの土地である日本に帰って、その日本にも彼女自身が親しむことができないのだとすれば、自分にいったい、何ができるだろう。答えは、自分一人で作れるものではない。いま、早希子と二人で、ともに旅をし、ひとつの場所をたずねてゆく、その過程で、もっと深くお互いの心を通わせよう。英介には、それよりほかに考えられる方法がなかったのである。
 いま、ここで切り出そうか。英介が呼吸を整えようとした刹那、早希子は昔よくそうしたように、好奇心を表情いっぱいにあふれさせ、問いかけて来た。
 「これから松島まで、どれくらいかかるのかしら。あの、芭蕉が書いていた景色が、この電車からも見えるの。」
 英介は、半分ほっとしたような、半分残念な気持ちで、しかしわが意を得たり、という調子を装って、話しはじめた。
 「ああ、そのことなんだけど、このへんまで来ると、わかってもらえるかな。いま、電車はかなり東向きに、進んでるんだ。だから、南からの日ざしが、まぶしいだろう。」
 早希子はうなずいた。
 「で、松島駅までは、あと二十分くらいかな。その手前で、一度海は見えるよ。芭蕉が実際に書いている雄島が磯や瑞巌寺のある海岸よりは、だいぶ手前だけどね。いわゆる松島の、雰囲気はわかると思うな。でも松島駅は、すこし内陸の方にあって、駅に停車しても、残念ながら、そこから松島の海は見えないんだ。」
 「あら、そうなの。残念だわ。」
 「いや、それはこの、今から行く東北本線での話で、たとえば帰りにでも、石巻から仙石線に乗って仙台へ戻れば、松島海岸っていう駅があって、その沿線からは、しっかり松島らしい松島が見えるのさ。」
 「せんせきせん?」
 早希子は無邪気に首をかしげ、聞き返した。英介もすぐに気づいて、説明をつづける。
 「ああ、仙台と石巻をむすぶ海沿いの線のことさ。もとは私鉄だったから、さっきの仙台駅でも離れたところにホームがあるし、松島駅と松島海岸駅では、松島の観光については完全に松島海岸に分があるんだ。そのことや、この東北本線の海線と山線のことなんか、全部話したら、きりがないかも知れない。」
 「たしかに、ちょっとわけがわからなくなるかも知れないわ。少しずつ教えてもらうだけで十分かも。」
 「ははは、そうだね。あとでほんのちょっとだけど、仙石線と並んで走るところがあるよ。海が見えるあたりでね。」
 話しているうちに、列車は利府への旧線(注2)を分岐する岩切を過ぎ、次は陸前山王と告げられていた。そのアナウンスを聞くと、英介はふと、かつての自分のありのままの姿を、早希子に語ってみたくなった。
 「はじめて東北の海辺に来たのは、四年前の、ちょうど今ごろなんだ。その時は、いま言った仙石線で、奥松島と呼ばれている、宮戸島という島に行った。芭蕉の愛した松島をたずねるということに、準備をしている時からもう、わくわくしてね。鞄に荷物を詰めながら、『股引の破れをつづり、笠の緒つけ替えて・・・』なんて、つぶやいたりしたよ。」
 早希子は微笑んだ。
 「はじめて見る松島の海はね、本塩釜の駅の向こうに見えたんだよ。」
 「塩釜って、松島の近くだったかしら。」
 「そうそう。次の駅がこの東北本線の塩釜駅だ。でもやっぱり、こっちの塩釜駅から海までは距離があって、仙石線の本塩釜が、港と市街地のあたり、つまり街の中心にあるんだ。国鉄時代からの『市の中心駅』は、この本線の塩釜駅だけどね。ところで、多賀城っていう地名は、覚えているかい。『壺の碑』の。」
 「ごめん。いちおう昔持っていた文庫本を、荷物に入れて来たんだけれど。」
 ばつの悪そうな早希子の顔は、ほんとうに久しぶりに見るものだった。英介は、舌の運びが軽くなるのを、何がなしに感じていた。
 「はは、当たり前だよ、覚えてなくて。僕だって何べん、何十ぺん、ここらの汽車の中で『おくのほそ道』を読み返したか。いや、多賀城は古代、このあたりの国府のあったところだから、芭蕉もしっかり書いてるんだけど、さっき話した仙石線と東北本線の関係で、多賀城の駅は仙石線にあって、東北本線には、多賀城と名のつく駅は、存在しないんだ(注3)。」
 早希子はようやく得心して、口もとをほころばせた。
 「いろいろな場所に、いろいろな歴史があるのよね。ここには、きっとわたしの知らない日本があるんだわ。そうでしょう。」
 「君が日本に帰って来たら、とにかく見てもらいたい、そう思って、今日のことを計画したんだ。四年前、はじめて奥松島の海を見た時から、僕は芭蕉もさることながら、このみちのくの海にひかれて、いく度も足を運んだように思える。とくに海辺を歩くようになってから、僕の目には、ずっと海の向こうにいる君の顔が、浮かんで見えた。今はまったく疑いなく、そう思えるんだ。」
 早希子の瞳が、かすかに揺れた。はじめて見る、早希子の目の光のように思われた。
 「英介くん・・・。」
 列車がトンネルにさしかからなければ、英介は、これまでこのみちのくの旅路であたためて来た思いのすべてを、そのまま早希子にぶつけていたかも知れない。だがトンネルの中では、会話がとぎれる。かわりに言葉を交わさぬまま、二人の間にはほのあたたかい、しずかな空気が満ちていた。
 列車が進入したトンネルは、塩釜駅を出てすぐの、短いトンネルだった。英介は、卒論を書くために平泉をたずねた際、何度か松島に立ち寄って行ったことがあったから、このあたりの鉄道事情には通暁するようになっていた。ここから三つ四つトンネルを抜けたら、並行する仙石線と、はじめての松島の海とを、早希子に見せてやらねばならない。
 早希子はトンネルがつづくため、入るたびにぎゅっと目をつぶり、やがておそるおそるまぶたを開くと、英介の顔を見る、そんなことを繰り返した。やがて英介の感覚にひらめくものがあり、左手の車窓に目をやると、海沿いの沼の向こうから仙石線の線路が近づいて来る。反射的に英介は早希子に目くばせをし、窓の外を指さした。折しも列車はふたたび短いトンネルに進入して、そこをくぐり抜けると、早希子の右手、英介の左手に、待ち望んだ松島の海があらわれた。
 早希子は声もなく、その眺めに感じ入っている。英介は、四年前に仙石線ではじめてここを通った時の自分を思い出した。そうか、あの時から、このみちのくの海に親しんで、早希子の帰りを待つことのできる、自分になった。そして今日、この海をたずねることで、早希子と二人、また新しい人生の旅路を、ひらくことができるのかも知れない。
 車窓にひととき見えていた海は、ほどなく視界から消えて行った。かつては海の彼方に俤(おもかげ)だけが見えていたのだが、いまは手を伸ばせばとらえられる、すぐ目の前に、早希子がいる。互いにつらい思いをした、という言葉が浮かんだが、英介はすぐ、自分の苦しみなど早希子のそれとは比較にならぬ、こうして早希子を迎えるためにこそ、あれらの日々があり、それが自分を大きくしてくれたのだと、思い直した。
 列車は松島の駅に到着した。国内でも有数の、著名な観光地でありながら、ホームの長さこそ立派だが、存外にしずかなたたずまいだ。それはさいぜん早希子に説明した通りの事情によるのだが、日本鉄道(注4)以来の長距離列車の乗客が、この駅で、多くは芭蕉に起因するのであろう松島への思いをつむいだのであれば、ここもまた、松島と芭蕉をむすびつける大事な駅なのだと思われる。
 その松島駅を発車するとき、英介は早希子に言った。
 「そろそろ駅弁を、食べておこうか。あとで乗り換えてから、こんなにゆったり座れるとは限らないし。」
 すると早希子は、急いで網棚の上のバッグを下ろし、その中から二合弱ばかりの、コップの付いた酒の瓶を取り出したのだった。英介は驚いた。
 「はい、これ。伯母に頼んで、用意してもらったの。」
英介は面食らった。とうぜん早希子の心づかいはうれしいが、この先まだ真面目な話をとりかわさなければならない今日、いくら何でも、その大事な話の終わる前に、口にするわけには行くまい。英介が戸惑っていると、早希子はさらにつづけた。
 「手紙であなた、汽車に乗ってお酒を飲むのが好きだって、教えてくれたでしょう。飲みやすくておいしいの、見つけておいてもらったのよ。」
 いかにも早希子らしい心くばりだと、英介は思った。正直なところ、二人で駅弁を食べながらその心づくしを受けることに、気持ちは傾きかけたが、早希子のこころをありがたく思えばこそ、けじめはきちんとつけるべきだと、英介は思い直した。そして言葉を選びながら、ゆっくり答えた。
 「ありがとう。本当にうれしいよ。でもあと少し、海に・・・。今日これから、君と二人でたずねる志津川(しづがわ)の海に着くまで、これを開けるのは、待ってもらえないか。いまは気持ちだけを、ありがたくいただいて・・・。」
 勘のいい早希子は、快活に、英介が言いかけたことばを引きとってくれた。
 「お茶で乾杯しましょうか。」
 「ありがとう。」
 二人はそれから、駅弁と一緒に買った、半透明のプラスチックで、形だけが土瓶に似せてあるお茶のパックを窮屈そうに注ぎあって、小さなコップを重ねあわせた。それはもう長いこと評判の悪い、プラスチックの容器だったが(注5)、英介と早希子、二人には、ちがう意味を持つものだった。

つづく
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 六.志津川の海 A

2018年03月01日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。最終章「志津川の海」、第2回です。 

 六.志津川の海 A

 英介は、長い手紙を読み終えた夜のことを、あわせて思い返した。早希子が最初の手紙の時から気にしていた、彼女の渡米後のこと、それがこのような内容であろうとは、想像だにしなかったから、英介はその時しばらく、言葉を失った。もちろん、早希子が手紙を書くのに逡巡した原因だという、彼女の過去が理由で早希子に対して悪い感情が生まれるなどということはなかったが、遠いむかしにちらりと聞いた噂話、その実情を打ち明けられて愕然とし、ほんの一瞬ではあるが、自分が早希子を支えられるだろうかという不安を覚えたのも事実だった。
 しかし、早希子の身の上の全容を理解し、ゆっくり自分の気持ちを整理するだけの余裕のある時間を取り戻すと、ふつふつと英介の胸中にたぎって来たのは、早希子をこの上なくいとおしむ気持ちと、早希子が苦しんでいた間、何も知らず、力になってやれなかった自分への怒りであった。だから英介は、二、三日考えを整理すると、自分の思いをそのままぶつけるように、早希子に手紙を書き送った。
 「はじめにひと言、君に対して心からすまないと、言わせてもらいます。君がそれほどまでに苦しんでいた間、僕は何も知らなかった。いや、そればかりか、自分が君に置いて行かれたように思い、僕は恋に破れたんだ、などと、思い込んでいた。それを思うと、自分が恥ずかしい。
 許して欲しい、などとは、かえって自惚れになるようだから言えないけれど、早希子、どうか帰って来て欲しい。それがいま君に言える、精一杯の言葉です。
 君は自分の過去に何も恥じる必要などないし、僕の目からは、やはり君は昔のままの君に見えます。これからは、もし君が苦しむなら、僕もその苦しみを、一緒に負うつもりです。」
 早希子、と手紙で呼びかけることは、英介にとっては自分の覚悟を示すことだった。かつて中学時代に同級となり、気が合っていつからか、皆の前では「池野」と呼び捨てで、二人きりの時は「早希ちゃん」と呼んでいた、なじんだ呼び方から、「早希子」と改めることは、これまでずっと俤(おもかげ)を追う時に心のうちで呼びならわしていた言い方であるとともに、現在の自分たちの年齢と、傷ついた早希子を迎え入れることへの自覚とを、形にあらわすものだったのだ。
 折り返し早希子からは遠慮がちな短い手紙が送られて来て、そのあとはじめて、英介はアメリカの早希子の家に電話をかけた。はじめに出た早希子の母に無沙汰を詫び、取り次いでもらうと、すぐ電話に出て来た早希子は、ひと言こう言ったきり、しばらく絶句してしまったのだった。
 「英介くん・・・。本当に、英介くんよね?・・・」
 英介も、早希子の声を聞くと、いろいろと考えていたことがうまく口から出て来ず、短い言葉をつなぐのが、やっとだった。
 「たくさん手紙をもらって・・・。こんなに遅くなってしまって。ごめんね・・・。」
 須臾の間の沈黙を急いで破ったのは、早希子だった。
 「ごめんなさい。日本からいただいているお電話なのに。うれしいわ、何年ぶりかでお声が聞けて。」
 声の調子が早希子らしくなったので、英介もわれに返って、それからようやく久闊(きゅうかつ)を叙し、また早希子の帰国の日程などを打ち合わせたのだったが、受話器を置くまで英介の胸の高鳴りは止まなかった。
 その早希子が、今は自分の目の前にいる。まだ、話さなければならないこと、確かめなければならないことはあるのだが、すくなくとも、早希子は自らの身の振り方を決めるためにこの日本へ帰って来て、自分を心のよりどころにしているのだ。
 英介は、駅弁をいくつか見くらべている早希子の耳元に口を近づけて、ささやいた。
 「いちばん君にすすめたいのは、『松島あなごずし』だな。」
 早希子ははじかれたようにふり向いて、相好を崩した。
 「うそ、覚えててくれたの。わたしがあなご、大好きだったこと。」
 「ああ。それでいいかい。」
 早希子がうなずくと、英介は、早希子にすすめたあなごずしと、自分が気に入っているちらしずしとをさっと手に取り、手早く会計をすませた。
 「あ、わたしの分はいくらかしら。」
 「いいよいいよ。まだこまかいお金もできていないだろう。」
 「いけないわ。昨日のお昼もごちそうになったのに。それに何回も切符を買ったから、お財布の中も、もうすっかりふだんの通りよ。」
 昨日、成田から東京へ戻る途中の列車内で、新しい一万円札は持っていたものの、六年前に登場した五百円硬貨をはじめて見て、早希子は驚いたのだった。
 「じゃあ、八百円。この五百円玉ができた時は、不思議な気がしたよ。何だか五千円、一万円の価値が、ずいぶん変わったような気がしてね。」
 早希子の手から五百円硬貨を一枚、百円硬貨を三枚、受け取りながら、英介は笑ってみせた。すると早希子は、もっとおどけたように言うのだった。
 「わたしもびっくりしちゃったわ。一万円札が、小さくなってて。もちろん日本にいた時には、あまりご縁はなかったけど。」
 「そう言えばそうだな。会社に入った時、はじめてこのお札で給料をもらって、それからすっかり慣れちゃったけど、あの頃は一万円札も五千円札も、聖徳太子だったんだよなあ。」
 英介がふたたび腕時計に視線を落とすのと、早希子が同じしぐさをするのと、ほとんど同時だった。二人はそのことに気づくと、今度はやや遠慮がちに視線を上げたが、正面から差し交わすまなざしが、しばらくたゆたい、互いに離れていた長い時間と距離、それゆえ隔てられていたそれぞれの思いとを、急速に縮めてゆくように思われた。
 その時、列車到着のアナウンスとともに遠くから汽笛が聞こえ、二人を乗せる一関行きの列車がやって来た。
 「ああ、来た来た。あの電車だよ。なつかしいな。学生時代に、よく乗ったんだ。」
 早希子は英介の視線を追いながら、首をかしげ、つぶやいた。
 「ずいぶんめずらしい電車ね。はじめて見るわ。」
 「そうだろう。昔は国鉄の花形の、電車寝台特急だった車輌だよ。本来の寝台列車では使われなくなって、こんなふうに改造したんだ。この東北線や北陸線(注1)で、けっこう活躍してるんだよ。」
 それはかつて、上野から東北、京都・大阪から九州方面へ、電車寝台列車として一時代を築いて駆けぬけた五八一系・五八三系電車を、普通列車用に改造した車輌だった。近郊用の電車ながら、長距離をゆく列車の汽笛のように聞こえたのは、そのためだろう。短い編成にするため、中間車を切妻型の前面のまま先頭車にしているので、はじめて見る者にとってはびっくりするような形をしている。英介自身、最初に東北へ来た時点ですでに東北新幹線が開業していたので、実際に電車寝台特急に乗った経験はないのだが、親しくみちのくを訪れるようになってから、この改造された普通列車に身をあずけることもたびたびとなり、これがあの五八一系の今の姿か、ここが寝台だったのかと、感慨を深めたのであった。学生時代の最後の旅以来、二年半ぶりの乗車になるかと思われる。
 「詳しいのね、英介くん。昔からそうだったかしら。そう言えば、新幹線の中でもいろいろ話してくれてたのに、寝てしまってごめんなさいね。」
 「いいんだよ。みちのくの旅も、これからが本番だしね。」
 「松島も通るんでしょう。今度は寝ないから、いろいろ教えてね。」
 「うん。もちろん・・・。」
 英介は東北本線の松島駅と、仙石線の松島海岸駅の位置関係などを話そうかと思ったが、実地を見ながらの方がわかりやすいだろうと考え直し、語尾を濁したまま、到着した電車の海側のボックスシートへ、早希子を導いた。
 「ほら、座席の間隔が、だいぶ広いだろう。これが、むかし寝台車だったことの名残りなんだ。それにしても・・・。」
 早希子は何も言わずに英介の次の言葉を待っているが、英介は、喉元まで出かかった言葉をそのまま口にするわけには行かず、のみ込んだ。この広いボックスシートに座る時、いつも傍らに早希子のいないさびしさに縛られる心持ちでいたのだが、今日は二人、ともに同じ場所をめざしている。ひとりでこのみちのくの鉄路を旅した頃のことを思えば、夢のようである。だが、こうして再会するまでに早希子が負って来た苦しみを知ればこそ、英介は、自分の感慨にばかり浸るわけには行かないと、己を戒めたのであった。

つづく

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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 六.志津川の海 @

2018年02月27日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。最終章「志津川の海」、6回掲載の予定です。 

 六.志津川の海 @

 上野駅から二時間弱の間を快走して来た東北新幹線『やまびこ11号』が、まもなく仙台駅に到着する。英介は、隣りの席でうたた寝している早希子の肩に手をかけようとして、思いとどまり、そっと立ち上がると、網棚から二つの鞄を、しずかに下ろした。その気配で気づいた早希子が、小さくつぶやく。
 「あ、ごめんなさい。いつの間にか、眠ってしまったみたい。」
 英介は、ちょっと早希子を見下ろすような格好で、笑いながら言った。
 「いいんだよ。昨日成田に着いて、それから横浜のおばさんのところ、それで今朝この時間じゃ、大変だっただろう。うちに泊まればよかったのに。」
 早希子の帰国を喜ぶ英介の父も、母も、早希子が来るなら遠慮はいらない、ゆっくりしてもらえばいいと、言ってくれた。そのことは、帰国前の早希子への電話でも伝えたし、成田で出迎えた時にもすぐ、申し出たのだが、早希子はともかく、今夜は伯母の家に行くと言って、聞かなかった。英介は、すこし気負いをはぐらかされるように感じながらも、それを早希子らしいと思い、上野で食事したあと秋葉原まで車中をともにして、そのまま横浜へ向かう彼女を、見送ったのである。
 そして今朝、ふたたび上野駅で落ち合った英介と早希子は、すこしぎこちない笑みを交わしながら、「おはよう」と言い、盛岡行きの『やまびこ11号』の二人掛けの席に、身をあずけた。学生時代に深く親しんだ沿線のあれこれを早希子に逐一教えたいと思ったため、彼女を窓側に座らせたのだが、前もって英介が考えていた通りには、車窓のガイドは進まない。成田から上野までは、八年ぶりの再会を互いに喜び、お互いに離れていた間のことをあれこれ語り合って来たけれど、上野公園の中にある精養軒で遅い昼食をとりながら、二人はそれぞれ、お互いが乗り越えなければならないハードルがあることを、強く意識したのだった。
 仙台駅で、早希子を乗り換えの順路にみちびきながら、英介は、はじめて合宿で悠吾とこの仙台駅に着いた時のことを思い出した。
 あの時は、まさかこうして早希子と二人で仙台に来ることがあろうとは、思ってもみなかった。早希子は過去の、遠い存在だった。しかし現実の人生は、今こうして二人を結びつけ、これまでの隔たりを埋めようとさせている。
 それだけでも、十分すぎるめぐり合わせだと、英介は思った。そして自分をはげましてくれた人たちの顔を、何とはなしに思い出していた。
 「卒論で芭蕉のことを書いたって言ったわね、英介くん。」
 早希子の言葉で、英介はわれに返った。英介の返事を待って、わずかに首をかしげ、心もち見上げるような角度から刺しこんでくるそのまなざしも、形よく整った唇をかすかにひらいて問いの気持ちをあらわしている口もとも、十代の昔そのままのようである。胸の奥にきざした疼きを押しかくしつつ、つとめてさりげなく英介は答えた。
 「うん。中学時代に、二人で勉強したことがあっただろう。どうして芭蕉があの旅路を歩いたのか、そのことがずっと気にかかって、大学でも芭蕉をメインに勉強したんだ。三年になる頃には、卒論もすっかり芭蕉で行こうと、決めていたよ。」
 早希子は少し目を細め、言葉を返した。
 「そんなこともあったわね。あの時は、あなたのおうちで帰りが遅くなって、兄が迎えにきてくれたのよね。わたし、あの時はちょっとくやしかったわ。」
 「どうして。」
 「だって、勉強に夢中になって遅くなっただけなのに、わざわざ迎えをよこすなんて。何か、変に誤解されているんじゃないかって、心外だったんだと思うわ。それに、英介くんとの友情に、水を差されたような気もしたのかな。」
 そう言うと、早希子は英介の目を正面から見つめる。そのまなざしが、ふたたび英介の胸の奥深いところをえぐった。八年前、父の転勤に伴ってアメリカへ行かねばならぬことを打ち明けたあの時も、早希子はたしかに、この同じまなざしで自分を見つめていたのだ・・・。
 そのことをはっきり思い出すと、「友情」と言った早希子の言葉が、頭の中でぐるぐると回転する。自分と早希子を結ぶものは、はたして友情なのか、それとも・・・。八年前のあの時も、彼女はそのことを問うていたのか・・・。そして今、自分はどのように、早希子に語りかければよいのだろうか・・・。
 返事にとまどい、英介は腕の時計に目をやった。つられて早希子も、同じように自分の左手首に視線を落とす。二人がお互いずっと手放すことのなかった腕時計の文字盤の同色の色合いが、別の意味でそれぞれの八年間のこもごもを、語っているようだ。
 英介はそれをしおに、早希子をホームの駅弁売りの売店へと誘(いざな)った。今日のこれからの道程では、昼食は車中で駅弁にせざるを得ない。それは昨日から早希子に伝えていたことである。早希子ははじめて経験する日本の駅弁への好奇心をあらわにして、英介のあとにしたがった。英介は、そんな彼女をこの上なく愛しく感じながら、春先からいく度かやりとりした早希子との手紙の断片を思い返していた。

 「とつぜんの勝手なお願いだったのに、こころよく受けとめて下さって、感謝しています。もうすぐあなたに会える、そのことをこの上なく、よろこんでいるわたしがいます。 
 でもその一方で、こんなに長い間、あなたに失礼をしたままでいたわたしが、自分の望むままにあなたと再会していいのか、そのことも気になります。それにわたしは、日本を離れた時のままのわたしではありません。
 それでもあなたや、そして日本という国が、わたしを受けとめてくれるのか、どうか・・・。ごめんなさい、今日はわたしの思ったままの気もちだけを、聞いてください。」
 「今度の手紙を、何度もくりかえし読みました。長い間のご無沙汰は、お互いさま。僕だって、君がアメリカへ行った時のままの僕ではないし、二十歳を過ぎてから、自分の人生というものを考えるたびに、あの時どうして無理にでも、君を引きとめなかったのかと、後悔するようになっていました。
 この間の手紙に書いた通り、君からの手紙を受けとって、僕は心底、うれしかった。そして、君が日本へ帰って来てくれる、これ以上の喜びは考えられないし、あれから僕が、生きて考えて来たことのすべてを、君に知って欲しい、そう思っています。
 いろいろなことを、会って話しましょう。僕ももう、あの時の僕ではありません。もし何か言いたいこと、言うべきことがあるのなら、すべてを話して下さい。どんなことでも、僕は受けとめるつもりです。」
 早希子からの最初の手紙を得たあと、しばらくして折り返しに英介が返事を返し、それからまたすぐに、二人の間にはこうしたやりとりがあった。
 しかし英介がこの返信を出してからひと月近く、早希子から返事は来なかった。英介は二信目を出そうか、あるいは国際電話をかけてみようかと、しばらく考えていた。そして明日にも電話をしようと決心したその夜にポストに入っていたのは、こんな内容の手紙だった。
 「英介さん、しばらくお返事を書けなくて、ごめんなさい。さんざん考えて、日本に帰ってみよう、そしてあなたに会ってみよう、そう決心したつもりだったのに、どうしてもわたしには、日本へ帰ることへのためらいと、こだわりがあるようです。
 あなたには何の関係もないことで、ごめんなさい。でもわたしは、あれからの自分のことを隠したまま、あなたに会うことは、できそうにありません。それなのに、手紙でそれをあなたに伝えるのがこわくて、いたずらに時間を費やしてしまいました。
 おかしいでしょう。昔は何でもすぐに決めて行動していたわたしが、こんなに優柔不断になるなんて。でもそれくらい、わたしとわたしの家族には、つらい何年間かがあったのです。
 もしかしたら、ご存じかしら。父がアメリカの支社に赴任したあと、父とは何の関係もない不正経理が発覚して、父は会社を辞めなければならなくなりました。わたしは信じられませんでした。アメリカという国で、前任者の何代も前からつづけられていたことを、父の責任にされるなんて。でも今にして思えば、日本叩きが激しくなる頃で、何も知らずに赴任した父は、スケープゴートにされたのかも知れません。とにかくアメリカの制度は、法として厳格に、その時の責任者を追及するものでした。
 それはある意味、しかたのないことだったとしても、もっとひどかったのは、日本の本社です。とかげのしっぽ切りのように、父にすべての責任を負わせ、日本へ呼び戻すことさえせずに、そのまま放逐したのです。そこに父の意志も含まれていたのだということは、ずいぶん経ってから聞きましたが(父は自分が犠牲になることで、会社の損失を最小限に抑えようと考えたのと、一方では、そんな会社に愛想が尽きてしまい、そこまでが限界だったのだと、わたしが二十二になった時に、話してくれました)、とにかく父とわたしたち一家は、身寄りもないアメリカで、まったくの独力で、生きていかなければならないことになりました。
 兄が大学を卒業し、アメリカへ渡って来てくれたのは、そのためです。兄が来てくれた時、わたしたちは嬉しくて、みんなで語り合いながら、夜を明かしました。でもわたしの心の中には、英介さん、あなたとの絆が断たれてしまうことへのさびしさが、はっきりと形をとっていたのです。うそではありません。
 それからのわたしの家のくわしいことは、いつかお話しできる機会があったらいいな、と思います。ただわたしは、次のことだけは、日本へ帰ってあなたとお会いする前に、お伝えしなければならないと思います。気持ちのいい話ではないと思いますが、このことをお話ししない限り、わたしは日本に帰ってあなたと会うことができないのですから、ゆるして下さい(気持ちはまだ、大きくゆれているのですが・・・)。」
 ここで早希子の手紙は、縦書きの便箋のページをわざわざ、改めていた。それは自分の身の上のできごとを、いま現在の私信とは別のこととして記そうとしているようにも、また気持ちを落ち着けようとする目的のようにも、英介には思われた。
 「わたしはアメリカへ来て一年で、ハイスクールを卒業することになりました。大学へ進学するつもりでいたのは、あなたもご存じのことと思います。でも父の仕事のことがあって、すぐに大学へ進むのは、むずかしくなってしまいました。兄もまだアメリカへ来たばかりで、ゆとりはまったくありません。
 考えに考えて、わたしはアルバイトを始めました。アメリカで日本人や、日本好みの富裕層に人気のあった、料亭ともクラブともつかぬところです。家計を助け、先々の学費を得ることも考えると、ふつうのファストフードや皿洗いのアルバイトでは足りるはずもなく、こちらへ来てから知り合いになったある実業家の紹介で、そういうところへ勤め始めたのです。
 でも、これだけは信じて下さい。不本意なアルバイトでしたが、自分を売るようなことだけは、決してしていません。このことを、あなたが信じて下さらないなら、わたしが日本へ帰ることもないでしょう。でも、やはりそのことが不安でたまらなかったから、なかなかこの手紙を書くことが、できなかったのです。
いちおう、父の知り合いの紹介での勤めでしたから、理不尽なことを強いられたりはしませんでした。でも、そこでの勤めは、わたしの自尊心をひどく傷つけるものでした。
 そのことが、いま、あなたに会おうとする上で、わたしを苦しめます。わたしは、日本にいてあなたと同じように大学へ進んでいたら、絶対に知らなくてよかったようないやな世界を、知ってしまったのです。
 それに、もうひとつ。このことだけは、手紙に書いてわかっていただくのは、むずかしいように思います。わたし自身が日本に帰ってみないことには、何とも言いようのないことなのです。この手紙を読んで、あなたがわたしのことをきらいにならないでいてくれたら、そしてわたしが日本に帰れたら、そのときに、お話しできれば、と思います。
 わたしは、日本に帰りたいと思うようになり、結局アメリカにはなじめなかったのだと知りました。でも、日本に帰るのもこわい・・・。たとえあなたがわたしを受け入れてくれても、わたし自身が、日本にもう一度心から、親しめるのか、どうか。
 ごめんなさい。何でも自分でどんどん決めた、あの頃のわたしには、いまはどうしても、戻れないみたいです。あなたに会えることだけが、わたしの希望のように思えます。」

つづく
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 五.真直ぐなる意志 C

2018年02月24日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 五.真直ぐなる意志 C

 翌日は快晴だった。前夜のうちに、三人で唐桑半島へドライブに行くことが決まっていた。太田たちには、気仙沼大島へ船で渡るというプランもあったようだが、英介が、かねてから一度行ってみたいと思っていた唐桑を、希望したのである。
 唐桑半島には、巨釜(おがま)・半造という景勝地があり、それぞれに、折石(おれいし)、トンネル岩という巨石、奇岩があることを、前回の三陸の旅で、英介は知ったのである。あるいは太田に、聞かされたのかも知れない。当時は大学卒業を目前に控えていたから、二人で痛飲し、二人とも朝起きた時は記憶がなかったのだ。
 海辺の奇観と言えば、太田の住まいの近くには、岩井崎がある。海蝕された岩穴から潮が噴き上げる「潮吹き岩」で知られているが、ここは前回たずねたので、唐桑から戻って時間があれば行こう、ということになっていた。
 太田の運転で、車は気仙沼市街へ向かう。昨日と逆のコースである。
 「こうしてみると、お前、ずいぶん遠いところを迎えに来てくれたんだな。」
 「まあ、ざっと十キロってとこだな。」
 「そいつはすまん。」 
 英介は、内心由紀子に、昨夜の早希子についての助言の礼も言いたかったのだが、改まって切り出すこともはばかられ、朝食の時から歯切れが悪かった。そもそも、早希子が帰国して再会しても、そのあとどうなるかわからないのに、礼など言うのも変だろうかと、そんなことも気になった。早希子と会って、それから真に喜ぶべき展開がのぞめるなら、その時礼を言えばいいか。そんな考えも頭をよぎった。
 気仙沼線の列車が、国道の車列の流れよりはやや速いスピードで、気仙沼方向へ走ってゆく。今度は外側から海と気動車の取り合わせを眺め、やはりいいものだと、英介は思った。はじめて奥松島をたずねてから、まもなく四年ほどになるが、早希子のいないさびしさを、遠くアメリカとつながっていることを感じさせるこのみちのくの海が、どれほどなぐさめてくれたことだろう。そして間もなく、自分は早希子と再会する。ここまで早希子を待つことができたのも、やはりみちのくの海のおかげかも知れない。山とひとつづきのものであるそこには、英介をゆったりつつんでくれる大らかさがあり、また人がいた。さらには海辺をつなぐ鉄道が、英介の思惟をはぐくみ、心をゆたかにしてくれた。気仙沼行きの三輌編成の列車を見送りながら、英介の心中には、仙石線や石巻線を含め、三陸の海辺の鉄道に対する限りない感謝の思いが湧いていた。
 気仙沼の市街地を抜け、車は唐桑町に入った。気仙沼市そのものが、宮城県の北東部、ほとんど岩手県に食い込んだような位置にあるが、唐桑町はさらにその東側の最果てに、独自の町域を占めている(注3)。この、ひそかに自分の訪問を待っていてくれたかと思われる、唐桑の海と町の息づかいに触れて、英介は自分の心境がどんどん研ぎ澄まされてゆくような気がしていた。
 唐桑半島は小さな半島だが、起伏に富んでいて、入り組んだ海岸線にごく狭い、しずかな浜辺がかくれていたりする。そして随所に、壮麗に瓦を葺いた見事な家屋敷が見受けられる。そのことを太田に問うと、即座に簡潔明瞭な答えが返って来た。
 「ありゃあな、唐桑御殿っていうんだ。鬼瓦も見事だろう。長いこと漁に出る海の男たちの、心意気を表しているそうだ。」
 海に生きる男たち。その言葉は、英介がこれまでこの三陸の海で出会った忘れがたい人たちの顔と言葉を思い出させるものだった。
 車はやがて、内海の側から太平洋側へ出た。半造の駐車場に車を止め、三人でまずトンネル岩をめざして歩き出す。遊歩道に入って唐桑の土を踏みしめると、英介の身ぬちにはしずかに力が湧いて来るようだった。午前の光が、春の近いことを告げている。ほどなく眼前に広がった青い海は、まさしくアメリカに、そして早希子に直結している太平洋だった。
 早希子に会いたい。その思いは、ずっと英介にとって、手の届かぬあこがれのごときものであったが、今は違う。もうすぐ早希子に会える。その確信にもとづいて、素直に会いたいと思えるのだ。
 英介は、昨夜と異なり、時々太田が由紀子をかばうようにして歩いてゆくうしろ姿を、心底好ましい、親しいものと感じていた。由紀子の言葉ゆえに迷いが消えたことも、もちろん手伝ってはいるだろう。だがそれ以上に、ひと組の男女がむつまじく過ごしていることに、近しい親しみを覚えるのであった。
 ほどなく太田が、大きな声を上げながら英介を手招きした。
 「おおい、あれがトンネル岩だ。」
 英介は小走りに、指をさしている太田の方へと駆け寄った。トンネル岩とはどのようなものかと思って来てみたが、なるほどその名の通り、大きな岩の根かたが浸食されて洞窟のようになっており、海水が出たり入ったりしている。根かたの浸食は激しく、全体的に不安定なのではないかと思えるほど、上部にくらべてぎゅうっと絞りこまれたような形になっている。上部は上部で、まるで峻険な山脈のように、ぎざぎざに研がれている。そして松か何かの木が肩のあたりに生えているさまは、長い年月の風雪と波浪に耐えて来たことを思わせ、まさに奇観そのものと言うべき姿なのだった。
 「すごいな、いいものを見せてもらったよ。」
 英介は、傍らにいる太田に言った。すると太田はにやりと一笑し、ちょっと由紀子の方に顔を向けながら、こう言った。
 「なあに、まだまだこれからだよ。折石を見てみるさ。」
 そして太田は、由紀子を促して駐車場の方へ戻ろうとする。ここで英介は、はたと閃くものがあり、勢いこんで太田に告げた。
 「なあおい、俺はこのまま折石まで、歩いて行ってみたい。」
 なぜだかわからないが、突然そうしたいという衝動が、突き上げて来たのであった。太田は驚いて英介の顔を見たが、すぐに英介の胸中を察したらしく、自分たちは車を巨釜の駐車場に移動させるから、好きなように歩くがいいと言ってくれた。
 英介は一人になって、もう一度海の彼方を見やった。足もとの崖下では、波しぶきが砕け散っている。その白い水沫(みなわ)をきわだたせる海の色は、かぎりなく青い。その青い海が、そのままアメリカへ、早希子のもとへとつながっているのである。そして英介のまなうらには、早希子のまっすぐなまなざしが浮かんで見えた。早希子のまぼろしを追うようだった自分の旅にも、ようやく終りが近づいているのだと実感した。
 それから、折石へ向かう遊歩道を、英介は歩き出した。踏みしめる一歩ずつが、たしかに何かをつかんでいる。半造から巨釜までは、さほどの距離はないように思われたが、いざ歩き出してみると、意外に遠い。だがこれまでの長い道のりを負っている英介には、その遠さも、道の高低も、何ほどのものとも思われなかった。左手の腕時計が、三十分あまりも時を刻んだだろうか。太田と由紀子は、巨釜の駐車場に出るあたりで、待っていてくれた。半造のトンネル岩へは、太田が先導する格好だったが、彼は今度は英介を前に立てて、海ぎしへの道を急がせた。
 ほどなく英介の眼前に、先ほど半造からも見えていた折石が、白く屹立した姿をあらわした。やはり荒岩に波しぶきの砕ける海面付近から、すっくとそびえ立つ折石の姿に、英介は言葉を失い、呆然と立ちつくした。しばらくそうしていた。
 ゆるぎない意志を見せつけるかのようなその姿は、かつてアメリカへ行くことを決めた時の、早希子を思わせた。早希子は周囲の者たちにこまごまとした気づかいなど見せる繊細さの一方、自分自身のことについては、容易に初志をひるがえすことのない、強い意志を持つ女である。その彼女が、大学を卒業するにあたって日本へ帰国するか、アメリカにとどまるかの選択をするために、会いたいと言って来た。そのこと自体が、ちょっと英介には意外だったし、さらによく考えてみると、おそらく向こうで、深く傷つくことなどもあったのだろう。
 今度は自分が、この折石のように強い心を、持たなければならない。どれほどに荒い波が打ち寄せようとも、決してゆらぐことのない強い決意を、早希子のために、そして自分自身のために、かならず打ち立てよう。
 英介は、太田と由紀子をふり返った。二人は何も言わずに、英介を見つめている。英介は、言葉を発するかわりに、力強くあごを引き、笑って見せた。太田がうなずき、由紀子はしずかに、笑みを返した。
 波の砕ける音にまじって、海鳥の声が聞こえている。唐桑の海は、すべてをつつんで、青くうつくしく照りかがやいていた。そして英介の心の中にも、希望と呼んでいいであろうひとつの光が、はっきりともされているのであった。
                                   
(注1)釜石駅へは、当時国鉄の山田線、釜石線の二線が並行して入って行き、その先へ第三セクターの三陸鉄道南リアス線が延びている。いっぽう盛駅では、大船渡線と、三陸鉄道開業前は国鉄盛線であった南リアス線が合流し、その奥へ岩手開発鉄道が延びているという構造である。岩手開発鉄道も、この当時はまだ旅客営業をしていた。
(注2)高田松原、陸前高田市が東日本大震災で受けた被害は、周知の通り。高田松原の描写については各種Webサイトのほか、(有)高田活版発行の『高田松原ものがたり- 消えた高田松原- 』を参照させていただいたが、同書においては、消えた松原を取り戻そうと活動されている方々のことが、紹介されている。
 私はかつて一度だけ、気仙沼へ向かう大船渡線の車窓から高田松原を遠望したが、そのうつくしい光景は、ずっと印象に残っていた。平成二十三年三月十一日から十二日にかけて、ニュースで陸前高田の被害が伝えられた時、高田松原のすがたが鮮明にまなうらに浮かんで来た。微力ながら、あの松原を忘れず、能うならば高田松原再生のための、わずかな力になりたいと考えて、本作で往時の高田松原を描かせていただいた。
(注3)当時。唐桑町は平成十八年(二〇〇六年)に「平成の大合併」で気仙沼市と合併し、現在は気仙沼市の一部となっている。

真直ぐなる意志 了
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 五.真直ぐなる意志 B

2018年02月21日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 五.真直ぐなる意志 B

 ひととおり手紙を読み終え、それから幾度か主要なところを読み返したり、英介の表情に視線を走らせたりした上で、太田は静かに言った。
 「この、彼女が書いてる、資格がないっていうのは、どういうことなんだ?」
 英介は胸を衝かれる思いだったが、つとめてさりげなく答えた。
 「さて、俺もこの手紙以外何も受け取ってないからな、詳しくはわからない。まあ察するに、向こうで誰か、好きな男ができたか、何なのか、ともかく俺たちが中学、高校と、ずっとお互いをよく知っていた、あのころのままの彼女ではないんだって、そういうことだろうな。」
 太田は少しの間、何も言わずに、煙草をふかした。それから、少しずつ言葉を選ぶようにして、英介に問いかけた。
 「それで、今の彼女が、これまでずっとお前が思っていたような彼女じゃないとして、今度会った時に、お前はどうするつもりなんだ。」
 英介は、しばらくだまって、窓の外の海を見つめた。漁火の出る季節ではないのだが、いくつか赤や緑の船の灯りが、遠くに見えている。
 「なあ、太田。ひとを愛する、って、どういうことなんだろう。」
 英介は、太田の顔を見た。太田は何も言わずに、一升瓶をかたむけてよこした。英介も、何も言わずにその酌を受けた。英介がその盃を飲み干すと、太田は言った。
 「お前、あれだけ昔、早希子さんのことを心配していただろう。その彼女が、お前に会いたいと言って来たんだ。お前も会おうとは、思っているんだろ。あとはお前の、覚悟ひとつじゃないのか。」
 英介は、今度は手酌で冷や酒を盃に注ぎ、飲み干した。
 「それはわかっているつもりだ。だが、俺が今まで生きて来た時間と、早希子の生きて来た人生とが、あまりに違いすぎたら、そもそも俺たちは、会わない方がいいような、そんな気もするんだ。早希子も言ってる通り、ずっと、昔の思い出のままの方が、いいのかも知れない、なんてな。」
 英介は、早希子の手紙を受けとってから、はじめて本音をさらしていた。それは自分でも、これまではっきりと意識したことのない考えだった。
 二か月前、一人暮らしのアパートに帰ると、郵便受けに手紙が入っていた。それがエアメールであることを認めた瞬間、英介の胸は高鳴った。そして差出人が早希子だと確認した刹那(せつな)の彼の心は、早希子が渡米した時の、十七歳の少年の心そのものだった。
 部屋に入って、灯りをつけ封を切るのももどかしく、英介は早希子の手紙をむさぼり読んだ。意識の下で何とはなしにおそれていた、結婚するとか、アメリカに永住するなどという内容でないこと、また来年日本に帰って来て、しかも自分に会いたいと訴えていることを合わせ読んだその晩は、長年のさびしさや苦しみが、すっかりほどけてゆくように思われた。一人で飲む寝酒のビールを、早希子と二人で飲んでいるような気さえ、したのである。
 しかし翌日から、手紙を読み返し、通勤の満員電車の車中などでいろいろ考えてみると、早希子の真意がどこにあるのかわからず、少なくともそれは、十代から二十代の学生時代に自分が待ち焦がれていた早希子の帰国とは、違うものであるのだろうということが、容易に推察された。早希子自身が手紙の中で、むかしの自分ではないと、打ち明けているのである。それがどのようなことを指しているのかということも、もちろん気になったが、さらに英介を慎重にさせたのは、早希子が帰国し、自分と会うことで、早希子自身の将来の道筋を決めようとしているらしく思えることだった。
 長いこと英介は、早希子がアメリカに渡ったあの時、日本に残るよう強くすすめるべきだったと思って来た。しかしそれから七年の歳月を経て、現実に早希子が日本へ来ることとなり、しかも自分と会うことが彼女の今後を左右するのだとなれば、話はそれほど単純ではない。手紙の文面にある通り、早希子が大学を卒業して、それから日本で暮らすことに決めるのなら、そこで自分の存在が、彼女にとって大きなものとなるのだろう。手紙はそのように読めるのだ。
 だが、自分もあれから七年以上も、ずっと早希子のことを思って来たとはいえ、みずからむかしとは違うと表明する早希子と自分とが、思いをひとつに重ねられるだろうか。それが何となく、不安だったのだ。
 英介は、太田の方へと視線を上げた。太田も黙っている。そこへ由紀子が、追加の肴を手にして戻って来て、太田の方を半分見ながら、遠慮がちに口を出した。
 「あたしが口をはさんで、いいかしら。英介さんにこうした方がいい、なんて言えないけど、早希子さんの気持ちは、わかるような気がするわ。」
 その刹那、英介ははじかれたように、また太田はゆっくりと、由紀子の顔を見た。
 「あら、ごめんなさい。あたし、早希子さんのこと、何も知らないのに。」
 由紀子はばつの悪そうな顔をして、台所に戻ろうとしかけた。それを鋭い言葉で制したのは、英介だった。
 「いや、そんなことはない。何か気がつくことがあったら、教えて下さい。」
 英介の表情を見て、由紀子は立ち上がりかけた膝を下ろした。そして少しずつ、話しはじめた。
 「うまく言えなかったら、すみません。あたしも女だから、思うんですけど、その早希子さんが、英介さんのことを、真剣に思ってなかったら、手紙にそんなことは書かないと思うの。自分が変わってしまった、という、そのことよ。もしもあたしが、早希子さんの立場だったとしたら、よほど真剣に相手のことを思っていなければ、そんなこと言わないと思います。だって、自分と同じように相手のことも大事だと思うから、自分にとって不利になるかもしれないことを、自分から言うんでしょ。違うかしら。」
 英介は、そう言った由紀子の顔をまじまじと見つめた。横から太田が言い添えた。
 「うん、まあだいたいのとこは、俺もそう思うね。もちろんな、女は怖い、なんていう話もあるにはあるが、さっき読ませてもらった手紙からしても、お前が昔からよく話してた彼女の性格からしても、正直に今の自分のことを伝えようとしてるんじゃないのかな。」
 英介は、太田と由紀子の顔を見くらべた。そこにはただ自分のことを案じてくれている、親友とその妻の顔があった。ほどなく英介は、波の音がかすかに聞こえる太田の家の二階の部屋で、他愛ない眠りのうちに夢をむすんだ。

つづく
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 五.真直ぐなる意志 A

2018年02月19日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 五.真直ぐなる意志 A

 ボックスシートの窓側の席に戻ると、車窓の行く手には、山の稜線が見え、その手前に横たわる青い内海の気配が、感じられるところだった。ああ、間違いない。英介の脳裏には、二年前にはじめてここでめぐり会った、うつくしい松原のイメージが、実景に先立って浮かんで来た。
 あの時は夕暮れが間近だった。静かな、わびしい海辺の車窓と思いこんでいた英介の目に、山の稜線と白波の寄せる海岸線との間(あい)をいろどる、緑濃い松並木が、強烈な存在感をもってとびこんで来たのである。それが高田松原だった。
 あらかじめ知識を持たず、三陸はただ急峻な山塊が直接海に落ちこんでいるものだとばかり考えていた英介に、高田松原の存在は衝撃的だった。あのような松原が、しかもあのような方角に見えるのか。のちに、日本百景のひとつにも数えられている高田松原と知り、大船渡線からの眺望にも合点が行ったが、気仙沼へ行く時間が決まっていたため、その風光を心におさめて、そのまま先を急いだのだった。
 今日はそこを歩くことが目的のひとつだから、気仙沼で太田と落ち合う前に、ひと列車、二時間分の空白を作ってある。いつもの通り、駅へ下りてからの道順などは下調べしていないが、二時間あれば問題ないだろう。前回の経験から、それだけの見通しはついていた。
 車窓には、海が見えかくれしはじめた。そして見定める方角に、あの印象的な松原が、うつくしい姿をあらわした。英介は、ひとつ大きく伸びをして、これから二時間の逍遥のために息をととのえた。
 列車は陸前高田のひとつ手前、脇ノ沢という駅に停車して、すぐまた発車した。海を見ながら少しゆくと、線路が右にカーブして、海は視界から消えた。が、今度は海ではなく陸の側から、高田松原が見えているらしい。間もなく到着、のアナウンスがあり、列車がどんどん減速して、はるばるめざして来た陸前高田駅が、英介を迎えてくれた。
 駅の造りは跨線橋がなく、構内踏切で線路を横切る、対向式二面二線の構造だ。上りが二番線で、線路を渡った一番線の側に、改札と駅舎がある。駅舎はずいぶん、古いもののようである。開通、開業が昭和初期だから、その時に建てられたものかも知れない。
 英介と一緒に下車したのは、十数人ほどだった。みな地元の人らしく、高田松原をめざして来たのは、英介一人だけのようである。松原への行き方を、改札で駅員に一応確かめて、ゆったりしたスペースの駅前広場に出る。タクシーのほか、車が数台停まっている。
 そして前方へまっすぐ延びている道が、市街地への道なのだろう。釜石や気仙沼とくらべると、静かな田園の町、といったおもむきである。この駅と町のたたずまいは、ふたたび英介の心を深くとらえた。
 列車に乗ってやって来た盛の方向へ、できるだけ線路に近い道をたどりながら、歩いてみる。右手前方には、松原が見えている。盛寄りに四、五百メートル歩いたところに踏切があり、そこで線路を海の側へ渡ると、高田松原はもうすぐだ。
 英介は、心もち駆け足気味に、松原への道を急いだ。波の音が聞こえる。道の流れに導かれるまますすんでゆくと、また英介を驚かせる、未知の土地とのめぐり合いが待っていた。実際に松が植えられている樹林帯の手前には、内水面がある。古川沼というらしい。そのほとりを今度はしばらく西側へ歩いて行き、川のように狭くなったところの橋を渡って、ようやく松原に、たどり着いたのだ。
 英介は、松原の中に入るとすぐ、時間を確かめた。駅を出てから、二十分ほど経過している。だが、これなら時間的には問題ない。今度は少しのんびりと、波の音が間近にせまった、浜辺をめざした。ウミネコが啼いている。松林を抜け出た英介の目の前に、青い海が広がった。今回の旅で、はじめてじかに海のにおいに触れ、風に吹かれる。何となく、砂浜に体を投げ出したいような気分になる。だがそこでふたたび気がついて、英介は左手の腕時計に目をやった。今度は時間を見るためではない。うすいブルーの文字盤に視線を落とすと、早希子の手紙の言葉が思い出され、また彼女の顔が見えるようだ。
 「でも、わたしの左の手首には、いつかあなたと二人で買いに行ったあの時計が、今でも変わらない時を刻んでいます。それだけが、苦しい時のささえだったこともありました。」
 自分の前に、海は果てしなく広く、青い。しかしこれまでと異なり、早希子は今、ぐっと近づいて来ているのだ。
 何を迷うことがあるのか。そんな言葉も浮かんだが、過去の懊悩が深すぎたためか、それとも年齢のせいなのか、やはりただ単純に、無邪気な昂揚にひたることはできない。だが英介には、自分の早希子への思いが、少なくとも一途なゆるぎないものであることは、確信できた。江戸時代に人の力で大変な苦難の末に築き上げられ、明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ地震津波の際にも高田の市街地を守ったというこの高田松原の大きな力に、自分と早希子も見守られているのではないかと、そんなことを考えた(注2)。

 陸前高田から気仙沼まで、大船渡線は内陸部を通っている。はじめ陸前高田からは大きなカーブを二度描き、しばらく西側の内陸へ進んだあと、やや南東寄りに向きを変えて、南下してゆくようだ。どこかで海が見えるのかと思っていたが、日が落ちて視界が暗いこの時間では、まるで深い山の中を走っているように感じられる。次が気仙沼だという鹿折唐桑(ししおりからくわ)の駅に着いても、その感覚は変わらない。駅名は、前に来たときは鹿折だったはずだが、ここも観光客誘致のために改称したのだろうか。
 十七時五十七分、列車は定刻通り気仙沼に到着した。跨線橋をわたって駅舎に向かうと、駅舎とつながった片側ホームの一番線に、気仙沼線の列車が停まっている。二年前にも見た覚えがあり、今朝早くに上野駅を出てから長い旅をして来た英介を、やさしく迎えてくれる眺めである。
 改札口を出たところに、太田がのっそりと立っていた。車で迎えに来てくれたのだ。
 「本当は、気仙沼線で少し乗って来てもらった方が近いんだが、まあ遠来のお客だからな。」
 「遠来も遠来、花巻から釜石を回って、さっき高田松原を歩いて来たよ。」
 「そう言やあそんなこと言ってたな。まあ車はそこだ。乗った乗った。」
 決まりきった挨拶よりもこうした直截的なやりとりにすぐ入れるのが、学生時代の感覚をそのまま残している間柄の、頼もしいところだ。
 「ところで何か、大きな展開があったそうだが、どんなあんばいだ。」
 車を走らせながら、太田は問うて来た。英介は、すぐさますべてを話そうかと思ったが、喉元まで出かかった言葉を押しとどめ、とりつくろう。
 「いや、まあ酒が入ってから、ぼちぼち話そうや。もっとも俺は、もう少々飲んで来たけどな。」
 T字路の信号でちょうど止まっていたから、太田はちょっと英介の方に顔を向けたが、すぐ前方に視線を戻し、アクセルを踏んだ。信号が青に変わったのだ。緑色の信号灯が、夜の闇に映えている。
 「まあ、夜は長いしな。のんびり聞くとするか。」
 「ああ、頼むよ。だがまだ早希子とは会ってもいないし、はっきりした展開とか、進展とか、そこまでのものはないんだよ。」
 「まあいいさ。ところで酒を一本、買って行こうか。どっちがいい?」
 「うん。やはり海辺で飲むんだからな。浦霞がいいかな。どっちもあるのかい。」
 どっちもあるのか、と聞いたのは、学生時代、太田にすすめられて彼の下宿でよく飲んだのが、いま英介が名を挙げた塩竈の酒「浦霞」と、太田の郷里にも近い東北本線の松山町に蔵元のある「一ノ蔵」だったことによる。太田は飄々と言った。
 「じゃあそうするか。実はな、『一ノ蔵』の方は、この間もらったいいやつが、一本そっくりうちにあるんだ。」
 「なんだ、最初からそう言ってくれればいいじゃないか。」
 「しかしだな、どうせ一本じゃあ足るまいよ。それなら一本は、お客に選ばせてやろうというわけだ。」
 「ふむ、なるほど。それはまあ、ありがとう。」
 太田は車を、一軒の酒屋の駐車場に入れた。南気仙沼駅と港が近いらしく、かなり活気のある町中だ。
 「ここではよく買うのかい。」
 「まあ、たまにな。生徒の伯父さんの店だから、何かあると顔を出すんだ。」
 太田は気仙沼市内の高校の教師をしている。運動部の部長の仕事がけっこう骨だ、とは電話で何度か聞いていたが、店主とのやりとりを聞くともなく聞いていると、すっかりこの気仙沼の町になじんでおり、生徒たちからも慕われているらしい様子が、よくわかる。英介は何かほっとして、太田がこの町にとけこんでいることを、自分のことのようにうれしく感じた。
 それから十分ほどで、二人は太田の家に着いた。たしかに、気仙沼線の陸前階上(りくぜんはしかみ)駅がもっとも近い、岩井崎近くの高台の家だった。
「おおい、お客さんだぞお。」
 玄関で太田が呼ぶと、奥から太田の妻の由紀子が、しずかに現れた。太田と由紀子は東京の学生時代からのつき合いだから、英介も旧知の仲である。
 「こんばんは。お邪魔しますよ。」
 「お久しぶりです。結婚式のときはありがとうございました。」
 親友夫婦が幸福そうな家庭を築いている家に遊びに来て、英介はちょっと複雑な気持ちだった。むしろ早希子からの手紙が来ていない頃の方が、単純に楽しく過ごせるのではなかったか。もちろん率直な思いとしては、自分も早希子とこのような幸福な所帯を持ちたいのである。しかし、まだそのように事態が進行するとは限らない。
 気仙沼の魚介と由紀子の手作りの料理を肴に、英介と太田はしたたかに飲み、酔いが回るほどに、二年ぶりに差し向かいで飲んでいること、太田の所帯に邪魔していることなどのこもごもや、近況なども語り合い、やがて話題は、英介が持参してきた早希子からの手紙の方へとうつって行った。英介は、ほかの者が相手なら、たとえ機会があるとしても、かいつまんで内容を話す程度だろうと思ったが、相手が太田であるゆえに、細かい注釈など添えず、早希子の手紙そのままを、太田に読んでもらおうと思った。

つづく
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 五.真直ぐなる意志 @

2018年02月17日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 五.真直ぐなる意志 @

 三陸鉄道南リアス線、盛(さかり)行きの列車が、釜石駅を発車する。見覚えのある橋上市場、そして市街地の向こうに遠望される港の様子と、反対側の新日鉄釜石製鉄所の姿とを、英介はこもごも見くらべた。釜石製鉄所は、二年前と変わらぬ威容で、釜石のシンボルとして鎮座している。
 昨年結婚した親友太田の気仙沼の新居を、はじめて訪ねる。たまたま折り合った太田の都合と、正月休みを返上して働いた代休をふくめ連続一週間の休日は、久しぶりにのんびりとしたみちのくへの旅を、英介に選ばせた。
 国鉄、すなわち日本国有鉄道が、この三月一杯でその歴史にピリオドを打って、貨物を含めて全国七社に分割され、民営化される。民営化後は、「JR」となるそうだ。
 英介は、むろん国鉄職員でも、直接関係のある仕事に就いているわけでもないが、中央線の沿線で生まれ育ち、ずっと旅の身をあずけて来た国鉄の終焉に、言い知れぬさびしさを感じていた。そして移行する「JR」という名称には、まだ親しみを持てずにいた。二年ぶりのみちのくへの長い旅は、物心ついてからずっと慣れ親しんだ国鉄への、惜別の旅でもあった。
 二年前と同じく、上有住(かみありす)から陸中大橋にかけての「仙人越え」の山中は、雪が山肌をはだらに染めていた。ただ今回は、あの時ちらと思った通り、新花巻で新幹線を下り、そして当時から気になっていた急行「陸中3号」を使って、釜石までやって来た。社会に出てほぼ二年、ようやく訪れた身めぐりの変化の兆しととも、往時とはだいぶ異なる現実的なことどもが、英介の想念を占めている。気仙沼で太田と会って酒を酌むうち、それらは一気にほとばしり出るだろう。いろいろな考えを引き出し、まとめるため、そして久しぶりの旅でふたたび仙人越えを果たしたくて、気仙沼へ直通する一関からの大船渡線や、仙台もしくは古川から乗り継いでゆく気仙沼線ではなく、花巻から釜石を経由するまわり道を、あえて選択したのであった。
 そしてこの南リアス線も、二度目である。三陸沿岸を田老まで北上した前回は、夕刻気仙沼へ着くように、ぎりぎりの接続で南下して行った。盛からの大船渡線では、途中で夕暮れ時の高田松原を遠望して、つよく心をひかれた。そこで今回は、気仙沼へ行く前に、少しく高田松原を歩いてみたい。それもまた釜石回りを選んだ動機だったし、いまは高田松原へ、高田松原へ、という思いが、英介の旅ごころを急がせているのだった。
 釜石線の急行「陸中3号」は、南リアス線の列車とほぼ同時に、もと来た方向へ、ただし線路は違う山田線へと、発車して行った。釜石駅のすこし手前で、北側から山田線が合流して、二本の線路は並行して釜石駅に入っているのだ。釜石線と山田線を直通する列車は、並行区間を行ったり来たりすることになる。そしてその反対側へ、南リアス線の線路が延びている。発車時刻は、どちらも十三時六分だった。
 釜石を出た列車は、しばらく甲子川(かっしがわ)と右になり、左になりして進行し、やがて甲子川を左手の河口の方へと見送ると、トンネルに入ってゆく。海とトンネル、これはこの三陸沿岸の鉄道と、切っても切り離すことのできない組み合わせである。とりわけこの三陸鉄道は、海岸沿いにレールを這わせるような昔ながらの造り方ではなく、最短距離をトンネルと鉄橋で結んで行くため、一本一本のトンネルが長く、数も多いのだ。それは北リアス線も、南リアス線も同様である。
 釜石から一つ目の駅、平田(へいた)へ向かうこのトンネルも、相当長い。もっとも仙人越えで幾多のトンネルを経抜けて来た今の心境では、トンネルはむしろ親しみ深いものと感じられる。
 長いトンネル。それは早希子と別れてからの自身の長い青春時代そのものであるかも知れないと、英介は思った。早希子がアメリカへ行ってから、高校、大学の五年あまりは、ずいぶん狭い世界で生きていたように、今の彼には思われる。そして出口は、時おりいくつか近づいて来たようにも感じられたが、まだまだ先の長いトンネルが、つづいているようでもある。
 会社での毎日は、多忙をきわめてはいるものの充実している。人づきあいもずいぶんと増え、たまに大学以前の友人、知人と会ったりすると、社交的になったとか、如才なくなったなどと言われることもある。英介自身、そうした自覚を持っていて、そのような指摘を受けることに、悪い気はしない。だがトンネルをはっきり抜け出たとまでは、言いきれぬものがある。
 南リアス線の列車はトンネルを出て、平田の駅に停車した。釜石方面をふり返ると、集落の向こうに入り江が見え、その左手の岬の上に、白い立像がみとめられる。釜石大観音だろうか。遠く太平洋を見渡して立つ、白い観音。思えば三陸へ来るたびに、英介は大洋の彼方を見やり、早希子のことを思って来た。今日、ここであの大観音に出会ったことは、どのような展開を、自分にもたらすのであろう。
 英介は、運にも偶然にも祈ることのない自己の性分を、それがいつからのものだったかと、己の胸に問うてみた。答えはわかっているようでもあるし、そうでないとも言えそうだ。しかしそろそろ、ここまで行きなずんで来た自らの行く末にも、ひとつの決まりをつけなければならない。その背を押してくれるものとして、きりぎしの上に立つ白亜の立像、釜石大観音は、力を与えてくれそうに思われた。

 南リアス線の列車は、釜石から四十数分で、終点の盛に到着する。路線としては起点が盛であり、三陸鉄道の開業までは、先ほど通って来た吉浜を終点とする、盛線だった。三年前、南リアス線、北リアス線の同時開業により、南三陸から北三陸までの沿岸を結ぶ三陸縦貫鉄道が、ようやく完成したのである。それは三陸沿岸に住む人々の、悲願であったと聞く。
 そして盛では、国鉄大船渡線に乗り継ぎとなる。南東から回り込んで来た南リアス線と北上して来た大船渡線が、同じ向きで、盛川のひらいたあまり広くない土地にすべりこんでゆく、終着駅である。ただ途中から沿って来た岩手開発鉄道が、内陸部に向かって足をのばしている。二線が合流する終着駅から、別の社線が延びているという構造は、南リアス線の位置づけが微妙なものではあるが、ちょっと釜石に似ていると、英介は思った(注1)。やはりリアス式海岸である三陸ならではの、地形にしたがった成り立ちなのだろう。
 盛からの大船渡線は、国鉄の気動車だ。仕事で小海線に乗ることもあるから、気動車自体はさほど珍しいわけではないが、やはり海辺を走る気動車には、心やすらぐものを覚える。思えばいくたび、この三陸の国鉄の気動車に乗ったことだろう。なつかしい人たちの顔も浮かんで来る。
 なつかしいと言えば、太田もそうだ。昨年のちょうど今ごろ、仙台まで、大学卒業後はじめて彼の結婚の祝いのために足を運んだ。大勢の出席者の中の一人だから、ゆっくり話をすることなど、もちろんできなかった。今日は久しぶりに、つもる話に興じることが出来るだろう。
 そしてまた二年前、釜石から浪板、田老へと旅したあの時まで、英介が眺める海のおもて、あるいはそのはたてには、去って行った早希子の俤(おもかげ)ばかりがうつっていた。
 それは今でも、決して変わってはいないのだが、これまでと違うのは、二か月ほど前に早希子から手紙が来て、彼女が永遠に去って行った人物ではなくなっている点に、きわめて大きな変化がある。今年の夏前にも、早希子は一度、日本へ帰って来るという。その時どのような再会をするかということが、今の英介にとってもっとも重要な問題なのである。
 早希子からの手紙には、こんなことが書かれていた。

 「何度かお手紙をいただいたのに、お返事も出さずに、ごめんなさい。ほんとうは、最初のお手紙をいただいて、すぐにも返事を書こうと思いました。いいえ、もっと正直な気持ちを言うならば、すぐにもあなたに会いたかった。
 でも、今のわたしは、あなたと同じ未来を夢見ていたわたしではありません。それどころか、あなたに会う資格さえ、ないのかも知れない・・・。
 だから、手紙をいただいてうれしかったのに、返事が書けませんでした。ゆるして下さい。東京では、わたしの家のことについてよくない噂があると教えてくれた人もあったから、このままもう、わたしはあなたの人生から、まったくの過去の思い出になってしまったほうがいいのではないかと、考えたりもしました。
 でも、わたしの左の手首には、いつかあなたと二人で買いに行ったあの時計が、今でも変わらない時を刻んでいます。それだけが、苦しい時のささえだったこともありました。
 すこし遠回りをしましたが、来年の夏、やっと大学を卒業します。それからこちらで暮らすのか、それとも日本へ帰るのか、まだわたしは決めかねています・・・。
 わがままなお願いですけれど、いちど、会ってくれませんか。あなたに会って、わたしは日本で生きるべきか、それともこのまま、アメリカにとどまるのか、真剣に考えてみたいと思うのです。今までずっと失礼ばかりして、勝手なことだとわかっていますが、わたしは今だからこそ、ほんとうの自分を見つめてみたいのです。
 そして、何よりも、あなたに会いたい。たとえあなたがゆるしてくれなくても、ひと目だけでも。

 英介さま                            早希子」

 早希子の手紙を取り出して読むうちに、列車は海岸に沿って走っていた。下船渡から、細浦にかけてのようだ。海を見て、英介は早希子の顔を思い浮かべた。二年前、三年前の学生時代なら、早希子から手紙が来たことだけで有頂天になったろうが、社会人になって人生の重さも責任も知るようになった英介には、軽率に喜ぶことはできなかった。文面も、無邪気に帰国を知らせるだけのものではないし、ともかく早希子に会ってみないことには、自分が何をどう判断すればいいのか、見当もつかないのである。
 もちろん、早希子が手紙に書いているのと同じように、英介もまた無性に彼女に会いたかった。その気持ちにいつわりがない以上、ともかくまずは会おう。会って早希子のこれまでのことと、まっすぐ向き合おう。そう心を決めて、早希子に返事を出したのは、まもなく年が改まろうとする頃だった。
 早希子のことを考えながら車窓の景色を眺めていると、短いトンネルがあり、線路はふたたび小さな半島の付け根を、横切りはじめたようだった。英介は、ちょっとまわりの様子を見わたしてから、トイレに立った。前回、車窓から眺めただけできわめて鮮烈な印象を残している高田松原まで、もうほどない頃だとわかったためである。

つづく
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 四.春を呼ぶ風 C

2018年02月15日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 四.春を呼ぶ風 C

 陸中山田を出ると、線路は海岸線と別れて内陸部へ入って行く。とはいえ宮古から盛岡への本格的な北上山地越えではなく、ここもまた半島の付け根の横断である。ただ同じように付け根と言っても、この半島は規模が大きく、南北にもかなり距離のあるらしいことが、時刻表の索引地図からもうかがえる。
 眺めがやや単調になったためか、今朝がた考えていた早希子のことが、ふたたび頭の中を占め出した。四月から会社勤めがはじまるから、そうしたら早希子をさがす作業はしばらくできなくなるだろう。卒業まであまり日もないし、何かと忙しいが、入社前にできることは、しておかなければならない。今度は早希子を、見つけられるだろうか。
 何気なく、英介は腕時計に手をやった。そして思った。自分は今も、この時計を愛用している。はたして早希子は、みずからが口にした言葉の通り、あの同じ色の時計をまだ使っているだろうか。いやそれ以前に、あの言葉とて、覚えているのか、どうか。
 だがしかし、それは問うまい。生きて再会できさえすれば、それでいいのだ。列車がレールの継ぎ目を越えるリズムが、ガタンタタン、と腹に響く。規則正しいその繰り返しが、英介の臍(ほぞ)を固めてくれるようだ。トンネルをいくつか抜け、山あいから海岸近くの開けた平地に出て人家も増えて、轍を踏むことなおしばらく。陸中山田を出て約四十分、閉伊川の橋梁をわたってすぐ、ようやく列車は、宮古駅に到着した。
 木の壁の跨線橋が、味わい深い。ここでは浄土ヶ浜へ行くか、北リアス線でさらに北をめざすのか、選ぶはずだった。だが駅の位置は思ったよりもずいぶん内陸側にある。これではやはり、浄土ヶ浜へはバスで行くしかなさそうだ。
 一方北リアス線は、三十分とすこし時間があるから、多少なりとも宮古の町を検分して、乗り継ぐのにちょうどよい。それに陸中山田で、「先へ行こう」と決めた時から、行けるところまで行きたいという思いが、強くなっていた。だから考えて決めるというよりも、列車が構内に進入して、停車しようというあたりから、すでに結論は出ていたようなものであった。
 北リアス線には国鉄との直通もあるが、今度の列車は宮古始発だ。はじめて訪れる駅では、かならずその全容と町の様子とを見て歩くことにしているから、英介は迷わず一度国鉄の改札を抜け、駅前へ歩みをすすめた。ぶらぶらと歩いてみるのに良さそうな町並みだが、海岸までは、かなり距離がありそうだ。港や浄土ヶ浜めぐりなどはまたの機会と割り切って、駅の周辺だけをざっと見ることとした。浄土ヶ浜には、いつか早希子と二人で行くことがあるだろうか。そんな思いが、かすかに胸をよぎった。
 缶ビールとつまみ、少々のパンなどを買いととのえて、北リアス線の改札を抜け、列車に乗りこむ。昨年開業したばかりの三陸鉄道は、施設も車輌もすべてが新しく、心地よい。周遊券と別に切符を買うことへの抵抗がないばかりか、第三セクターによって国鉄の未成線を開通させた上に特定地方交通線〈注2〉を引き受けて、南リアス線とともに三陸縦貫鉄道を完成させた意義の大きい路線だから、鉄道好きの立場でなくとも応援したくなるのは当然だ。
 三たび時刻表をひらき、このあとの時刻を確認する。宮古の発車が十一時四十一分。国鉄宮古線の終点だった田老発が十二時一分で、十二時四十六分に、普代という駅で、久慈から来る上り列車と行き違いをするようだ。
 この普代での行き違いが、夜までに気仙沼へ行くリミットであることは、先ほど調べておいた。汽車に乗り通しのつもりだから、ビールとあわせて軽い昼食ていどの買い出しを、して来たわけである。
 だが間もなく開業一年を迎える北リアス線は、やはり相応の利用者があり、車内は満席というほどではないが、ボックスシートを一人で占有できるわけでもない。英介のはす向かいにも、旅行者らしい中年の男が一人座ったので、英介は缶ビールだけをとり出して、今朝浪板の宿を出てから最初のひと口を、流しこんだ。えも言われぬ快感が、五臓にしみわたる。
 ほぼ時を同じくして出発した列車は、しばらく山田線の線路に沿ってすすんでゆく。やがて少しずつ上る形で山田線から離れはじめ、高度をかせぎながら右へ大きくカーブすると、すぐ最初のトンネルに進入した。田老までは新線ではないが、昨年の開業前後、ニュースや鉄道雑誌などで、三陸鉄道はトンネルと橋が多いと、しきりに伝えられていたことを思い出す。
 はす向かいに座った男は、がっしりしたカメラバッグを持っている。英介は旅に出て、記録らしいものをほとんど残していないことに、気がついた。気が向いて持ち帰った切符や宿のパンフレット、あとはたまに見学した施設の資料ぐらいは、整理もせず机の引き出しにためてあるが、それだけである。
 そう言えば、早希子の写真一枚すらも、英介は持っていない。早希子の兄の俊夫はカメラをよく持ち歩いていたから、いつだったか早希子と二人の写真を撮ってくれたことがあり、後日早希子から、焼き増しを兄に頼もうか、と聞かれたことがあったのだが、照れが先に立って、断った。あれが唯一、早希子の写真を手にする機会だったのだ。
 早希子との別れは、当時の自分にしてみれば唐突なものだったし、彼女の写真を手許に置いておきたいなどと思ったことは、一度もなかった。これまでは、むしろそれが当然だと思っていたのだ。
 だが今、自分の持ち物の中で早希子とのつながりのあるものが腕時計一つきりであることが、英介は不満だった。さびしくもあった。
 列車は長いトンネルを抜けると一つ目の駅に停まり、すぐまたトンネルに入った。聞きしにまさるトンネルの多さ、そして長さに、うなずけるものがある。車窓の眺めは、両側とも深い山中のそれである。何となく、今の自分の心境に似ているかなと、英介は苦笑する思いだった。
 さて、このまま普代まで、行ったものか。あまりに露骨な折り返し乗車は、東京などでは咎められるが、ここは観光路線でもあるし、車内で運賃精算するのだから、その点は、別に問題ないだろう。
 だが、こちらの下り列車が着いた時、上り列車がドアを開けて待っていてくれるかどうか、それはわからない。時刻表には、双方の発車時刻が書かれているだけである。もしも普代で置いて行かれてしまったら、気仙沼はおろか大船渡でさえ、夜までにたどり着けるかどうかわからないのだ。一つ手前の田野畑あたりで、余裕を持って上り列車を待つ方が、良いのではないだろうか。
 列車はまた長いトンネルを抜けて、二つ目の駅を過ぎていた。そして今度は短いトンネルをいくつも抜け、川を渡って、もう一つトンネルをくぐる。さらにまた川を渡った先が、田老の駅だった。英介は、ここなら海が見えるかな、と思って顔を上げ、海の方に目を向けて、その刹那に大きく息を飲んだ。堤防が見える。その堤防が、ごく普通の堤防でないことが、瞬時に英介の魂をつかんだのである。
 次の瞬間、英介は相席の男に会釈して、鞄をかかえて列車を下りた。あの堤防を、この町を見てゆこう。今日の北リアス線での行動の終幕は、こうしてたちどころに決したのだった。
 駅の案内をたよりに町なかへ歩き、それから堤防に向かってみると、めざす対象は、直感的にとらえたその大きさの予測をはるかに上回る巨大さで、迫って来る。電柱などには、過去の大津波の達した水位の高さが、随所に示されていて、防災への備えが幾重にも施されている。そして英介は、自分の目を釘づけにしたあの堤防は、明治三陸地震、昭和三陸地震の大津波によって壊滅的な被害を受けたこの田老が、津波から町を守るために、何十年もの歳月をかけて築き上げた大防潮堤なのだと知ったのである。
 英介は、しばらく町をめぐってから、大防潮堤に上ってみた。高い。十メートルの高さと聞いて来たが、町の側を見やると、もっと高さがあるように思われる。英介は、しばらく町と海、そして町の背後に迫る山の様子とを見くらべていたが、いつか自然と両手を合わせ、頭を垂れている自分に気がついた。
 昭和三十五年のチリ地震津波の際は、昭和三陸津波のあとから建設された大防潮堤の効果もあって、被害は出さずにすんだという。だが昭和三陸、明治三陸の両地震による津波では、町のすべてが失われるほどの被害を受け、多くの人が亡くなった。そのことを思い、おのずと合掌していたのだろう。
 そして、昨夜浪板の宿のあるじにチリ地震津波の話を聞いていなければ、列車が田老駅に着いた時点で、防潮堤に目を留めることもなかったかも知れないし、まして田老で下車して、ここをたずねて来ることもなかっただろう。
 英介は、海の側に向き直ると、はるかなアメリカの方角を望んだ。
 ・・・早希子。かならず迎えに行く。待っていてくれ・・・。
 今度こそ、英介はそれができると確信したし、何があってもやりとげなければならないと、強い覚悟を抱いていた。
 その裏づけとして、英介は、今日ここまで歩いて来た旅の蓄積が、たしかに自分に、ある自信を与えてくれていることを、実感しているのであった。
 渡米する早希子を引きとめられなかったのは、お互いの年若さと、自分にいくらかの勇気がなかっただけのことにすぎない。それは何より、自分自身の弱さによるものである。
 しかし人は、成長する。変わることができる。また、人間の知恵と勇気は、以前は不可能だった多くのことを、可能にして来た。花巻と釜石を鉄道が結び、長く隔てられていた大船渡〈注3〉と釜石、宮古と久慈も、三陸鉄道によって結ばれて、長年の悲願であった鉄道による三陸縦貫も、果たされた。この田老の大防潮堤が町を守っているのも、人智と技術を、長年にわたって注ぎこんで来た賜物である。
 もちろん自然の猛威は、人間の営みをやすやすと圧してしまうことがある。自然の力の前に人為が無力だということを、常に忘れてはならない。理屈として知っていたそのことは、浪板のあるじの言葉によって、痛切に英介の記憶に射こまれたように思われる。
 こうした経験と思惟の蓄積が、自分を強くしてくれたのだと、英介は思った。どうにもならないこと、それは雪江の言葉だったが、少なくとも自分にとって早希子のことは、どうにもならないことではない。人間の為すことの中でも、自分一人の身の処し方でいかようにもできることなのだ。
 むろん早希子に会えたとして、自分の思いを受け入れてくれるかどうかは、彼女次第である。だが、それは問題ではない。自分がすべてを懸けるからこそ、相手にも、答えを求めることができるのだ。浪板のあるじと雪江の声が、重なって聞こえて来る。
 そして海の彼方に、夢で見た早希子の微笑みが、すこし晴れやかさを加えて、浮かんで見えるような気がした。波とともに寄せる風が、はじめて春のにおいを運んで来た。
                                      
〈注1〉・・・釜石線の区間で長く花巻側と釜石側を隔てていたのは仙人峠であるが、実
際の釜石線のルートは土倉峠の南側を、土倉トンネルで抜けている。本作では、その歴史に鑑み、釜石線の北上山地越えを広い意味で「仙人越え」とさせていただいている。
〈注2〉・・・「特定地方交通線」は、昭和五十五年(一九八〇年)十二月に制定された「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」によって、廃止(バスまたは第三セクターに転換)が妥当とされた旧国鉄の赤字路線を指す。三陸鉄道では、北リアス線に久慈線(久慈‐普代)、宮古線(宮古‐田老)を、南リアス線に盛線(盛‐吉浜)を、それぞれ含む。
〈注3〉・・・南リアス線の起点盛(さかり)駅は、大船渡市盛町に所在。

 春を呼ぶ風 了


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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 四.春を呼ぶ風 B

2018年02月09日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 四.春を呼ぶ風 B

 上り列車の発車時刻ぎりぎりに、英介は駅へたどり着いた。だが浪板駅は片側一面ホームの無人駅であり、しかも東北ワイド周遊券で国鉄区間は乗り降り自由だから、手間どることはない。これは計算ずくだった。
 ホームに出るとすぐ、川内行きの上り普通列車がやって来た。空席が多い。海側のボックスシートにゆったりと身を投げ出し、英介は時刻表をとり出した。リアス式海岸らしく、半島や小島が近づいて来る車窓の景色に目をくばりつつ、今日これからの旅程を思案する。とはいえ夕刻気仙沼着、と終りが決まっているから、選択肢は限られたものだ。
 列車は二十分ほどで、陸中山田に到着する。ここは山田線の線名のもととなっている重要な駅であるが、あとの時間が決まっていなければともかく、今回の旅では今日足を伸ばした先が北限となるわけだから、まだもう少し、未知の海辺を遠くへ、北へと行ってみたい。
 宮古で下車すると、浄土ヶ浜へ行ける。これはぜひ、たずねてみたい場所である。だが気仙沼へ行くことを考えると、どれほど宮古滞在の時間がとれるだろう。次々にページを繰って、太田との約束の時間までに気仙沼へ行ける乗り継ぎ時刻を、逆算してみる。すると、ちょうど十八時に気仙沼へ着く大船渡線の列車があり、そのために盛へ十六時三十六分着の南リアス線、だから釜石へは山田線で宮古を十四時十四分発の・・・と決めてゆく。
 結局、宮古で三時間前後の間に浄土ヶ浜へ行ってみるか、宮古から北リアス線に乗り継いで、どこか気に入った場所で下車して引き返すか、そのどちらかに、策は絞られた。あとは宮古に着くまでの思惟と、実際に宮古駅で下りた時の気分が、決めてくれるだろう。行ってみないとわからない部分も、旅にあっては大きいものだ。
 浪板を出てほどなく線路は上りにかかり、やがてトンネルをいくつか抜けた。それからしばらく、海は右手下方に見えかくれし、再び近づいて来ていたが、次に停まった岩手船越駅は、はっきりした内陸駅のおもむきだった。三陸ではもうかなりなじんだ感のある、半島の付け根部分の横断のようだ。そして岩手船越を発車すると、次は織笠、つづいて陸中山田に停まります、と車掌が告げた。そのアナウンスの「陸中山田」という名を聞いた途端、瞬間的に英介の心中に、「あ、下りたい」という衝動が走った。旅の途上の、名状しがたいインスピレーションである。
 山田の町に、特に知った謂れがあるわけではない。つい先刻まで、今日は見送ろうと考えていた駅でもある。しかし格別の理由がなくとも、強く心をひかれる土地というものが、必ずある。昨日の浪板につづき、あるいは陸中山田もまた、そうした土地の一つとなるのだろうか。
 ここで英介は、湧き上がった衝動のまま陸中山田で下車することに、決めはしなかった。宮古での二者択一のプランに、いま一つの候補として陸中山田下車の選択肢を加え、その場所への到着を待つことにしたのである。
 これはいつからか、英介における旅の手法の一つであった。やむを得ぬ条件がある時は別として、今回のようにあてなく歩くことができる場合、いくつか方途を立てておき、最後は実地での判断で、動くのである。
 間もなく砂浜の海岸線があらわれる。かなり広がりのある湾の、最奥部のようだ。山田湾であろう。そして織笠に停車すると、次がいよいよ陸中山田である。
 英介は、建設を進めながら逐次開業してきた山田線の、歴史を思った。盛岡から海沿いの宮古へ出て、さらに一時は県下第二の都市であった釜石までの沿岸を結ぶ山田線にも、途中釜石線の仙人峠〈注1〉と同じく、区界(くざかい)峠という、険しい峠がある。江戸期までは、徒歩や馬で越えるしかなかった北上山地を、明治以降は全国津々浦々にまで浸透した鉄道敷設の熱情と、軍事・産業両面からの輸送力の確保、増強の要請のもと、当初の終点である陸中山田へ達したのが、昭和十年だったという。そして昭和十四年に釜石まで延伸され、全線開業が果たされたが、戦後の二十年代には、台風の被害により長く不通となってしまい、そのため釜石線の建設が急がれた。そんなあらましを、平泉を幾度もたずねながらさらに三陸の海辺に思いをはせるうち、折にふれて見聞して来たのである。
 そうした意味では、釜石や陸中山田、宮古という山田線の主要駅は、英介にとっておのずからなる道標だったと言えるかも知れない。昨年開業した三陸鉄道南リアス線、北リアス線への関心とあわせて、遠くめざして来た歌枕のごときもの、と言えばよかろうか。芭蕉の『おくのほそ道』になぞらえれば、さしずめ「末の松山」あたりだろう。
 こう考えたのち、英介は陸中山田到着を堪能した。想像した通り、町の規模は大きくないが、二面三線のしっかりした駅で、一時的にせよ、ここが終着駅だった名残のようなものを感じさせる。港までは、いくらか距離があるようだ。かつては上野直通の長い編成の急行が発着した長いホームにのんびり停車している感覚が、何か途方もなくなつかしい。
 不思議なことだが、英介は、この陸中山田駅が気に入って、そのためかえって下車する気持ちが失せてしまった。ゆったりとつつんでくれるような駅の雰囲気に身をゆだね、またゆっくりと発車してゆく汽車旅の醍醐味を味わうことを、優先したのである。
 停車時間があれば、駅の検分をかねてビールを買いに行くところだが、列車の行き違いもなく、余裕はなさそうだ。せめても町の空気を吸いたいと考え、窓を開けると、やはり潮の香りがする。英介は、大きく息を吸いこんだ。それとともに、下閉伊郡山田町と国鉄陸中山田駅という場所が、英介の心にふかく刻みこまれた。

つづく
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 四.春を呼ぶ風 A

2018年02月05日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 四.春を呼ぶ風 A

 「まだ、おだってなあ。」
 あるじ夫婦は通りまで出て、名残惜しそうに、送ってくれる。
 「お世話になりました。また来させていただきます。」
 英介は何度か振り返りながら、駅へと向かった。あるじ夫婦は英介の姿が見えなくなるまで、見送ってくれていた。
 国道と国鉄山田線が、並行している。昨日下車したのは浪板駅で、山田線を釜石から北上して来て、大槌町に所在する最後の駅だ。
 右手には、ゆるやかに湾曲した砂浜の海岸線と、松並木がつづいている。昨夜聞いた話では、夏は海水浴客でにぎわい、また冬場をのぞいて、サーファーの姿が途絶えることもないらしい。さすがに二月の海に、まだ人影はなかったが、夏場は華やかに彩られるこの美しい海岸を、春まだ遠いこんな季節に、一人で歩いているのも自分らしい。そう思って、英介は少し歩みをゆるめたのだった。
 そこへ列車の汽笛が聞こえた。浪板の駅を、釜石方面へ向かう列車が、発車するらしい。英介は、腕時計の文字盤に視線を落とした。下り列車と上り列車が大槌で行き違うのだとすれば、心づもりした時間通りだ。
 その時ふと英介は、かつて早希子と二人でこの時計を買いに行った日のことを思い出した。
 「五年経っても、十年経っても、私たち、この時計を使っているのかしら。」
 当時の英介は、高校、そして大学という青春時代を、ずっと早希子とともに歩んで行くのだと、何とはなしに思いこんでいたから、五年後や十年後などという先のことは、まったく想像もしなかった。しかし、あれから七年の歳月が過ぎ去り、あまつさえ、早希子は行方も知れなくなってしまった。
 だがそれは、真の行方知れずではない。英介は、そう自分自身を戒めた。
 なぜなら早希子が己の意志で消息を絶ったのではなく、はじめはわかっていた彼女のアメリカでの落ち着き先に、手紙を出さなかったのは自分だからだ。あの時手紙を出してさえいれば、早希子が自ら連絡をしなくなることは、なかっただろう。それは英介なればこそよく知るところの、義理がたい早希子の性分から、容易に想像できることである。
 つまり俺は自分から、会えるとも会えないともわからない早希子を追いつづけようなどという、このようなのぞみのない境遇を、招きよせてしまったわけだ。これまでの英介なら、ここで自嘲気味に自分を茶化して、歌など歌って終るところだ。
 だがいま、英介の心の底には、ふかく響いて来る二つの言葉があった。
 「死んだ者は、帰(けえ)らねえ。浮かばれねえ。んだけんど、生ぎ残った者にも、辛えごどがいっぺえあるだ。」
 英介と差し向かいで酒を飲みながら、民宿のあるじは、大槌町では死者は出なかったが、近在に住む身内や親しい友人知人を幾人も、チリ地震津波で失ったのだと呟いた。
 「さがせばいいじゃありませんか。・・・もうどうにもならない、ってことになってからじゃあ、遅いのよ・・・。」
 あの雪江の言葉は、英介の心にふかく刻まれて、早希子の消息をたずねる間、ずっと支えになっていた。そして今また、寄せては返す波のように、涼やかな中にひそかな悲しみをたたえたまなざしの印象と重なって、よみがえって来る。
 エンジン音をひときわ高く響かせて、列車が通り過ぎる。昨夜の酒が過ぎたため、うっかり失念していたが、見ると三輌編成の急行用気動車で、先頭の上部には「急行」の文字が見える。「陸中2号」であろう。かつてはグリーン車も連結していた優等列車で、三輌の短い編成になったとはいえ、やはり急行が堂々と通過するさまには、安心感がある。そしてこの「陸中2号」は、宮古発で、釜石からは釜石線を経由して花巻へ至り、さらに盛岡まで行くのである。
 ああ、あの急行で陸中大橋から「仙人越え」をしてみたい。英介の五体に、衝動が走った。だがそれは、改めての機会を待つしかないだろう。昨日の夕方、親友の太田と連絡がつき、今夜は気仙沼で、落ち合うことになっている。だから時刻表をたよりに沿岸を北へ行けるところまで行き、午後には南下して、気仙沼をめざすのだ。
 「陸中2号」が走り去るのを見送ると、英介は波打ち際まで行ってみたくなり、鞄から時刻表をとり出して、上り列車の時刻を確認した。浪板発が十時十二分だから、少しの間、波打ち際で、寄せて来る潮の先端にふれるぐらいの時間はあるだろう。浜への降り口を見つけ、英介は心もち歩みを速めた。
 昨日汽車を下り、民宿をたずねてゆく時に、浜辺は十分に歩いたのだ。しかし昨日と今日とでは、この海に対する自分の思いが、まったく違うものとなっている。もう一度、じかにこの浜の砂を踏み、その水の冷たさを実感しなければ、ここを離れるわけには行かない。そんな思いが、英介をつき動かす。
 太陽は、右手に突き出している岬の上までのぼっていて、そのやわらかな光の加減が、海の青さを際立たせている。英介は、浜辺に落ちていた木切れを手にとって、小走りに波打ち際まで駆け寄った。そして手にした木切れを、思い切り海に向かって放り投げた。能うかぎりの力をこめて投げたつもりが、木片は、うねりが波となって崩れはじめるあたりまですら、届かない。今度は石を投げてみたが、結果はほとんど同じだった。
 英介は、空を仰いだ。青い空には雲ひとつなく、鳥影も、飛行機雲も見当たらない。ただひたすらに青い空の中へ、吸いこまれそうな気がして来る。
 早希子の名を叫びたくなり、英介は、あたりを見回した。誰もいない。誰もいないその静かさが、かえって英介をためらわせ、叫ぶかわりに、目に留まった貝殻を拾い上げると、波が寄せるのを三回、四回と待ち受けて、寄せて来た水にひたし、さらして、ていねいにそれを洗う。付着していた砂がきれいに落ちると、貝殻の内側が、真珠のような輝きを放った。
 そうしているうちに、英介の胸中には、不思議と澄み切った諦念のようなものが生まれて来た。すべてが自分から生じたことであるならば、その結末も、自分で書き上げるしかない。波の音がしずかに響いて、英介は、はるかな海の向こうにいる早希子も、自分と同じ思いでいるのではないかと夢想した。
 波というものは、つづまりのところでは澄みとおり陽光にきらめいて、そして限界まで寄せ上げると、大きくためた息を吐くように、すーっと引いてゆく。だがやがて英介は、この浜の波の引き方が、ずいぶんゆるやかであることに気がついた。はじめは自分自身の気分のせいかと思ったが、これまで旅して来たどの浜辺の波の引き方とも、違っているようだ。
 ふたたび英介の脳裏に、昨夜のあるじの言葉がよみがえって来た。曰く、この浪板の浜の砂地は特別で、寄せた波が粗い砂に吸われるため、ふつうの砂浜よりも引き波がおだやかなのだという。
しかしそれでも、津波の時はまったく別で、あの津波は、かけがえのない多くのものを、無慈悲にさらって行った・・・。あるじはそこで杯を置き、しばらく黙りこんでしまった。
 かけがえのない、多くのもの。英介はあるじの言葉を反芻した。自分には、まだそれほどに深刻な経験というものはない。ただ一つ、「かけがえのないもの」を手放したという思いはあるが、それはまだ、永遠に失われてしまったわけではない。むしろ、一昨年の野蒜にはじまり、女川、釜石、この浪板とかさねて来た旅が、また海が、とり戻すことのできるものなら、何としてでもとり戻せ、という力を、与えてくれている。浪板の民宿のあるじも、女川の雪江も、自分を孫か子、弟のように案じてくれ、力づけてくれたのである。
 英介は伸び上がって、民宿の方を見た。そのたたずまいには、すでに特別ななつかしさが感じられる。そして大まかな方角としては、そのずっと向こうに女川が位置していて、雪江がいるはずだ。
 そちらへ向かって、英介は何となく頭を下げた。それから沖合の方へ向き直り、いっとき波の彼方を眺めやると、時間をたしかめて、駅の方へときびすを返した。

つづく

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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 四.春を呼ぶ風 @

2018年02月02日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 四.春を呼ぶ風 @

 ひさしぶりに、早希子の夢を見た。時計を見ると六時前だった。
 枕元に、昨夜の飲み残しの酒があるのに気がついて、英介は体を起こし、まずは猪口の底に残っていたひと口、ふた口をすすった。それから銚子を振ってみると、とぷとぷと音がして、半分以上は入っているようだ。
 それを猪口に注ごうとして、ふと手を止めた英介は、夢の中で見た早希子の微笑みの意味を思った。
 波の音が聞こえる。昨日は車窓からこの浜辺の民宿に目を留め、思いひかれるままに次の駅で下車した。そして海沿いの道をのんびり歩きながら、時に浜へ降りて遊んだりして、頃合いを見はからってたずねたのであった。
 季節はずれの、予約もしない一人客の訪問だったが、年配のあるじ夫婦は歓迎してくれた。聞けば一人娘を東京に嫁がせており、その長男が春から高校に進学するとのことで、年齢の近い英介に、初手から好感を持ったということだった。
 夕飯はすすめられるままに、広い客間であるじ夫婦とともにした。酔いがすすむにつれ、地の言葉そのままとなってゆくあるじの言葉の細部には聞きなずんだが、出は関東だという女房の口添えと、意気投合した酒飲み同士の気安さで、大いにうちとけ、遅くまで飲んだのだった。
 そして寝酒に部屋へもらって来た銚子二本のうちの一本が、枕元に残っていたのだ。
 やや痛む頭を押さえながら記憶をたぐると、はじめは東京の高校の様子などを聞かれ、自分の高校のことや、あるじの孫が進学するという学校のある街の様子などを、知っている限り話したのだった。
 だがいつもの癖で、酔いがつのると、自分の方から問わずがたりに、早希子のことを話してしまったように思う。だから早希子が、夢に現れたのだろう。
 それにしても、あの微笑みは・・・。
 それは別れた十七の時の俤(おもかげ)ではなく、大人びたいまの自分たちの年齢通りの相貌だった。そして見たこともない、早希子らしく涼しげな口もとにある種の艶をふくんだ、謎めいた微笑みであった。
 あれはいったい、何を自分に伝えようとしているのだろう。その疑問は英介の心を大きく占めたが、それ以上に、抑えがたいなつかしさと愛しさが心の底から湧き上がっていることを、彼は自覚した。
 手にした銚子の酒を猪口に注ぐと一気に呷(あお)り、また次の一杯を注ぐ。だがそこで、英介はふたたびぴたりと手を止めた。
 「早希子に会いたい。会おう。」
 十七の時に別れて以来はじめて生まれた、早希子への強い思いだった。
 一昨年の夏、女川であの雪江に詰め寄られ、その後しばらく、英介は早希子の行方をさがしたことがあった。
 それは中学時代に早希子と仲の良かった女友達への連絡にはじまり、その相手に教わった、比較的新しい早希子のアメリカの住所に、かつて破り捨てた記憶も生々しいエアメールを送るところまで、英介を動かした。
 しかし、そこから先、さらに英介が具体的な行動を起こすまでには、ことは運ばなかったのである。雪江の強い後押しがあったとはいえ、英介にしてみれば天地を逆さにするほどの決意を持って書き綴り、送ったエアメールが、差出人戻しになることこそなかったが、その後しばらく待ちわびた早希子からの返事は、いつまで待っても来なかった。英介は、早希子の住所を教えてくれた女友達や、その他二、三の早希子の友人たちにはそれとなく当たってみたのだが、誰も早希子の現在に関して、確たる消息をつかんでいる者はいない。
 早希子の父の勤務先にたずねるということまでは、さすがに大学生の英介にはできないし、むかし彼女から話に聞いたことのある親戚などの名前は憶えていても、所在も知らぬその人たちに、連絡の取りようがあるはずもない。
 結局この段階で、英介が早希子の現在をさがす目論見は、八方塞がりとなってしまったのである。
 だが、花巻から奥深い山を越えて鮮烈な印象の釜石の町と出会い、さらに三陸の海を旅して来た英介は、この旅に出るまでとは違う、覚悟とも諦念ともつかぬものが、自分に備わっているように感じていた。むろんそこには、間もなく大学を卒業し、社会人となることの自覚も、関連しているだろう。
 しかし、自分に力を与えてくれているのは、海だ。この三陸の海だ。英介は、あてない旅の途上に一夜の宿りをゆるしてくれた海辺の宿で、昨夜の飲み残しの酒を飲みながら、これからの自分がなすべきことを、ひとつひとつ確認し、ひと通り得心したところで、猪口の二杯目を空にした。
 カーテンを片端へ寄せ、窓を開ける。朝日が海面を、まぶしく光らせている。この海の向こうがアメリカで、早希子がいるのだ。これまでの旅と異なり、英介は本当にアメリカへ行ってまでも、きっと早希子を見つけ出そうという強い意志を抱いていた。
 輝く海原は、よく見ると沖合から眼下の浜辺にかけて、大小の波のうねりが時おり日差しをあふれさせ、ざっとこぼしたり、ところどころに影を作ったりしながら、最後は白波となって押し寄せている。そのさまに見入りながら、英介は、昨夜あるじから聞いた、二十五年前のチリ地震津波のことを思った。
 自分が生まれる二年前の、昭和三十五年。太平洋の対極の向こう側、地球の裏側とも言われる南米のチリで起きた地震による大津波は、一万七千キロメートルも離れた日本の沿岸に、およそ二十二時間後、巨大な力をためて到達した。近海の地震ではなかったため、津波が来ることは当初予想されず、明け方に沿岸を襲った巨大な津波は、各地に大きな被害をもたらした。津波の襲来をいちはやく感じとったのは、浜近くに住む漁師であり、気象台からの警報はなかったという。
 あるじが聞かせてくれた直接の被災地の当事者の経験だから、その言葉には重みがあった。当時まだ生まれてもいない英介は、チリ地震津波という名称についても、過去の大災害のひとつとして、うっすらと記憶している程度だった。それでも幼い頃、潮干狩りや海水浴などで海に行くと、津波はおそろしいと大人たちが口にしていたことは、はっきり覚えている。もちろん幼い英介に、津波の何たるかがわかるはずはない。
 それは二十二歳の現在とて同じであるが、ただ、いまの彼は早希子のことを思うゆえ、海というものをおのずと大きな視点でとらえようとしているだけに、秘められた海の力への畏れのようなものは、何となく実感できる。
 そして、五年前に文字通り海をわたってアメリカへ行った早希子の思いも、わずかながらに想像できるのだった。あの時、彼女はまだ見ぬ海の彼方に、大きな可能性を感じたのではないか。日本に残ることを望んだ俺のことを、見限ったのではない。それも含めて、ただそうせざるを得ない状況の中で、自分自身の勉強や将来のこと、一切を、アメリカでの新しい暮らし、もっと言えば大いなる海の裁きに、ゆだねたのではないだろうか。
 こう考えて、英介は、最後の猪口一杯を飲み干した。

つづく

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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 三.山の果てに海ありて−釜石 B

2018年01月30日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 三.山の果てに海ありて−釜石 B

 列車は川に沿って、一路釜石へと下ってゆく。陸中大橋で少しまとまった人数の乗車があり、駅ごとに、幾人かずつが乗って来る。
 英介は陸中大橋から、鞄を網棚の上に載せ、それまで占有していたボックスシートに空きをつくった。腰を下ろすのとほとんど同時に、四、五歳くらいの男の子を連れた初老の婦人が、その子を英介の前の窓側に座らせ、自分はその隣のはす向かいに席を占めた。
 「もさげねす。」
 お辞儀をしながらそう言ったかどうか、はっきり聞き取れず、英介はただ口をもごもごさせて、辞儀だけを返した。
 幼い男の子は、目をきらきらと輝かせながら、窓の外を見ている。このくらいの年ごろには、まだ早希子のことも知らなかったな、という思いがよぎり、英介は、今回の旅ではじめて言い知れぬさびしさを覚えていた。
 人気のない峠を越えて来て、人里に入り、人のぬくもりに触れる。そこでかえって、胸の奥にひそめていたさびしさが増幅するとは、どういうことだろう。これが、人恋しさというものなのか。早希子に対する尽きぬ思いは、ずっと自分を縛りつづけるのであろうか。
 英介の人恋しさをつのらせた二人は、釜石のひとつ手前の駅で下りて行った。婦人はその時も、英介にかるくお辞儀をし、英介も会釈を返した。ただそれだけのことだったが、英介の心中には、深い思いが残った。
 間もなく釜石に着くはずだが、川沿いにわずかな平地は認められるものの、相変わらず車窓の両側とも、山が占めている。英介は、改めてここがリアス式の陸中海岸の一部であることを認識した。あの峠越えの最中、やがて海辺の町に出るはずだという実感がなかったが、終点の釜石に至るまで、すなわち海岸線まで山が迫っているのでは、無理もない。陸中大橋からは列車の足どりが軽くなったため、単純に海へ向かっているのだと思ったけれど、たしかにやって来た釜石は、海と山の町なのだった。 
 岩手弁の車掌の声が、終点釜石への到着を告げる。前後して英介の目にとびこんで来たのは、駅の右手の山裾を埋めつくすように建ち並ぶ、大きな工場や煙突群である。言わずと知れた、新日鉄釜石製鉄所だろう。予想はして来たが、はじめてそのさまを目のあたりにした英介は、まさに度肝を抜かれる思いだった。
 なぜかと言えば、東京で生まれ育った英介にしてみれば、製鉄所や大規模な工場などは、みな東京湾の臨海部に立地しているイメージであり、このように駅の目の前、市民の生活と一体のところに、このような大規模な施設があろうとは、夢にも思わなかったためである。
 列車が停止して、ホームに下り立つと、その思いは一層強くなった。視界がひらけたので、両側の山もさほど高くないものであることがわかり、また東の方は明るい空が広がっていて、今度こそ本当に、海にたどり着いたのだと感じられる。だが駅の広い構内には入れ替え用の機関車や貨車が並んでおり、さらに製鉄所から何かの運搬用と思われる設備が延びていたりして、この釜石駅と製鉄所が、切っても切れない不可分のものであることが知られるのだ。
 ホームから下った通路を通って改札を出ると、目の前が製鉄所である。何年か前に一部が操業を停止したと聞いた覚えがあるが、その威容におとろえがあるとは思われない(注3)。いや、かつては今以上に勢いがあったということなのだろう。釜石市の人口も、最盛期は今よりずっと多かったと、これも来る前に何かで目にしていたと思う。
 釜石からは、国鉄山田線が海岸沿いに宮古まで北上し、盛岡へ通じている。厳密には、山田線の終点が釜石ということらしいが、釜石線に乗って来れば、ここが山田線の分岐駅という感覚だし、盛岡から花巻、釜石を経由して、宮古まで凹の字型の往復をする急行も存在する。また昨年開通したばかりの三陸鉄道南リアス線が盛(さかり)まで通じており、そこから大船渡線に乗り換えれば、大船渡や陸前高田を経て、宮城県側の気仙沼へ出ることもできる。つまりここ釜石から、出立前に英介が望んだ通り、北でも南でも、気の向くままに三陸の海辺を旅することができるのだった。
 さて、北へ向かうか、南をとるか。はじめは釜石で、その選択をする心づもりだった。しかし心わびしい峠路を越えて来て、予想すらし得なかった釜石の町に圧倒された英介は、何よりもまずこの釜石を、ゆっくり歩いてみたいと感じ出していた。
 釜石駅と製鉄所の間の道を左へゆくと、市街地、そして海へ出られるようだ。南リアス線の線路をくぐるとすぐに橋があり、陸中大橋からずっと沿って来た甲子(かっし)川を渡るのだが、ここで再び英介は仰天した。車が通るのは普通のコンクリート橋のようであるが、どうも歩行者は、その横にある橋上市場という商店街を、通り抜けるらしい。はじめはよくのみこめなかったが、橋の上に、魚屋をはじめ雑多な業種の小売業が、店をかまえているようだ。食堂らしい名前も見える。
 学生で酒飲みの英介に、この種の市場での買い物は縁のないことだったが、見知らぬ旅先での意外な出会いという意味では、この橋上市場もまた、特筆すべき旅の記念譜のひとつだった。
 そして川の向こうの商店街が、釜石の中心市街地なのだろう。町並みはすこし古びた感じがするものの、思ったよりも活気のある雰囲気である。製鉄所は昼夜の別なく操業しているのだろうから、そこで働く人たちも、交代制で町を賑わしているのだろう。
 そんな製鉄所の従業員であるのかどうか、わからぬが、明らかに学生の雰囲気ではない、若い男女三人ずつのグループが、口々に何か語り合いながら、地場のデパートに入って行った。彼らには、英介がまだ持っていない落ち着きと、しっかり地についた希望や目標があるように、英介には感じられた。
 ふと、卒論で、芭蕉が何のためにみちのくをめざしたかについて、独自の意見を盛りこんだことが思い出された。
 「人生に偶然はあるが、必然はない。必然と思い定めるのは、個人の思惟である。だが、時に必然と考えざるを得ないできごとに行きあたるのも、また人生だろう。芭蕉はその偶然と必然の境を見きわめたくて、当時いくつかの偶然が彼を呼んでいたみちのくへ旅立った。そして表現上の必然を得て、『おくのほそ道』の名文と、「五月雨を」や「閑かさや」などの秀句を得たのである。」
 この結論に関しては、教授から良い評価を得ることはできなかった。全体の評価としては「優」をもらえたが、このくだりについてだけは、教授はひと言、このように言ってくれただけだったのだ。
 「長い君自身の人生で、生涯かけて、答えを見つけてごらん。」
 英介は少し気負いをはぐらかされたように思ったが、深々と礼をして、教授の下を辞した。つい二週間ほど前のことだった。
 あの時の教授の言葉が、鮮明によみがえる。「長い君自身の人生・・・」。たしかに、考え抜いて書いたつもりではあったが、いま思い返すと、独善的だし、結局何が偶然と必然の境なのかは、自分でもよくわかっていない。いや、おそらくそれは、生きている限り迷いつづけることであり、その時その時にどのような断を下せるか、そこにこそ、生きることの重さと面白さがあるのだろう。
 そして。英介は、ぐっと唾を飲みこんだ。
 早希子とのことに決着をつけぬ限り、自分には、偶然に翻弄された青春から必然をつかみとるステップへ歩をすすめることは、できないだろう。重い荷を下ろすだけでなく、それを負ったことが、つまるところ自分の人生においての必然であり、より深い「あるべき自分」を見出すための過程であったと思えるようになるならば、負ったことにもかけがえのない価値がある。早希子と再び会えるにしろ、会わぬにしろ、過去は光りある過去として、自分の人生を彩るようになるだろう。
 考えながら歩くうち、いつか港の近くにまで、やって来ていた。桟橋が二本あり、魚市場も見える。釜石は鉄の町でもあるが、魚の町でもある。製鉄所に近い桟橋には大型の貨物船が停泊している一方で、魚市場の側では漁船が体を休めている。
 午後の太陽は、南から西へ廻っているが、まだ傾きかけるというほどではない。冬の海だが、日ざしはおだやかで、海面も青く澄んでいる。南リアス線の列車が一本、川を渡ってトンネルの中へ消えて行った。南へ行くなら乗ろうかと思っていた列車である。入り組んだ海岸線は目標がつけにくいが、あの列車で沿岸を下って行けば、英介にとって忘れがたい女川へも、レールはつづいている。
 そしてまた、ここからは見えないが、北へ向かう山田線に身をあずければ、まず宮古、そして北リアス線で久慈を通って、遠く八戸までも行くことができるのである。
 この沿岸の鉄道が、旅ゆくものの遠い道を、はるかに保証してくれている。あの仙人峠を越えて来るのにも、自分自身は何の苦労をすることもなく、旅の思いに身を解き放ち、得がたい思惟を育んで来た。すべては険しい土地に鉄道を築き、守り、動かしつづけて来た先人たちのおかげである。
 空は青く、ところどころに真白い雲が浮かんでいる。山と海が町を育み、鉄と魚が町を支えている、活気にあふれた釜石である。英介はこの旅で、何かをつかんだ気がしていた。釜石をめざした自分の旅の感性が、どこか芭蕉に通じるように思えてやまないのであった。

 山の果てに海ありて−釜石 了

(注1)・・・一〇〇〇分の一をあらわす単位。パーセントの、さらに一〇分の一。一〇〇〇メートル進んで四〇メートル高度が上がる勾配を、四〇パーミルという。
(注2)・・・ホッパーと呼ばれる施設。実際には、鉄鉱石を主とする鉱石の搬出用。
(注3)・・・一九八〇年(昭和五五年)に大形工場を休止している。この当時は、高炉は操業中。


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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 三.山の果てに海ありて−釜石 A

2018年01月27日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 三.山の果てに海ありて−釜石 A

 列車は遠野の駅に、二分間停車した。遠野は市制を敷いているが、宮守など周辺の町村は上閉伊(へい)郡、下閉伊郡であり、『遠野物語』に出て来るそのままの地名である。
 英介が、かの本の中でひととおり覚えているのは座敷童ぐらいだが、その座敷童ひとつをとっても、百年前にはそのような不可思議が、実際に感得されていたと言う。戦後の四十年、あるいは明治以降の近代百年あまりで、何がそれほど変わったのだろう。
 ディーゼルエンジンの唸りが、ひときわ高くなった。それとともに、列車の速度がかなり落ちている。
 地方を旅するようになるまで、英介は、電車というものは時速九十キロ、百キロという速さで走るものだと信じていた。勾配を上る気動車では、それが二十キロ、三十キロ程度になることもあると知ったのは、九州の山岳路線に乗ってからのことだ。さらには小海線小淵沢からの大カーブでは、まさに喘ぎながら坂を上る様子を実体験し、堀辰雄が、七里岩を上って来る中央本線の列車を「攀じ登って」と表現したのもむべなるかな、と思ったものである。
 いま、遠野を過ぎてけわしい上りにかかる釜石線のディーゼル列車も、まさにそのような苦闘を演じており、いつしか窓外の景色は、深い谷と、雪の傾(なだ)りに裸木があまた突き立つ冬山の景となっている。人家は見当たらない。
 いよいよ、仙人越えか。英介は、体がふたたび引き緊まるのを感じた。
 花巻から遠野を経て釜石へ至る釜石街道には、仙人峠という難所がある。『遠野物語』にも、「仙人峠は登り十五里降り十五里あり。」などと記されていたように記憶している。
 かつて花巻から釜石をめざした岩手軽便鉄道は、いま列車が到着しようとしている足ヶ瀬駅から、現在の釜石線のルートではなく、釜石街道が仙人峠へ向かう道筋を限界まで上りつめた位置に仙人峠駅を設け、そこを終着としていた。
 そして釜石からは、峠の向こうの大橋(陸中大橋)まで、釜石鉱山鉄道が達していた。仙人峠駅と陸中大橋駅は直線距離で四キロメートルほどであったが、ここにトンネルを掘削したり、スイッチバックをいくつも設けるなどして、釜石までの直通を果たすことは、一地方私鉄の手には余る事業だった。
 そこで仙人峠駅と陸中大橋駅の間には索道(荷物用の、ロープウェイのようなもの)を設け、新聞や郵便などの通信媒体および各種貨物等の荷駄はこれをもって輸送、旅客は名だたる難所の仙人峠を、徒歩や駕籠で越えていたという。
 やがて、岩手軽便鉄道は国鉄の買収するところとなり、三〇〜四〇キロメートル北側にほぼ並行して盛岡‐宮古間を結んでいる山田線とのかね合いも含め、仙人越えが地域の喫緊の課題となった。
 とはいえ、当初岩手軽便鉄道が策定した、仙人峠の下をトンネルで抜けるルートは、費用がかさむし、完成しても輸送力の面でボトルネックとなるリスクがあったのだろう。何しろスイッチバックにループ線を組み合わせ、それでも四〇パーミル(注1)の勾配が、想定されたという。あの碓氷峠が六六・七パーミル、通常の運転方式での上限は、二五パーミルだ。碓氷峠は信越本線という動脈だったから、天険を越えるために技術も資金もつぎ込むことができたのだろうが、当初は地方私鉄が主体であり、国鉄になっても幹線ではないこの地方で、天文学的な資金を要する工事は不可能だったという事情も推察できる。
 結局採用された現在線のルートは、仙人峠を迂回し、トンネルで一度川すじの異なる気仙川の流域に出て、さらにトンネルを使って陸中大橋駅の上部にたどり着いてから、百八十度のUターンをするようなカーブをもって、陸中大橋駅の高さへと下ってゆくものであった。「新線」部分に設置された駅の名前は「上有住(かみありす)」といい、洞窟内の滝で知られる鍾乳洞の瀧観洞(ろうかんどう)が、すぐ近くにある。
 上有住の駅は、山中にぽつんと置かれた、まことに孤独な駅だった。瀧観洞という名所が近くにあっても、それがために多くの乗降客がつめかける駅であるとも思われない。
 ただ感じられるのは、このあたりの山の、奥深さだけである。しばらくゆけば太平洋岸の釜石に出る、ということは、知識としてはわかっているが、いまのこの冬山の景の中にあっては、なかなか実感しにくい。何しろ、この分水嶺を越えることは当初の計画ではかなわず、釜石線の全通にしても、戦後になってから、台風の被害で山田線が不通になったことの影響が建設促進のあと押しとなり、ようやく昭和二五年(一九五〇年)に至って果たされたものである。遠野物語の伝承さながらの不可思議が、何十年か前まで現実のものであったろうと感じて、英介はちょっとあたりを見回した。
 列車は上有住を出て、長いトンネルに入った。入ってすぐ、そのトンネルが長いということがわかるのは、ある種の経験と、慣れであろう。短いトンネルは、当然行く手から日の光が見えるので、すぐにわかる。また幹線では、長いトンネルには照明がついているから、それのあるなしで、だいたいの長さがわかるのだ。だが地方の単線などの場合、照明が必ずついているとは限らないし(トンネルを歩いて通り抜ける人がいる場合でも、そのために照明がつくものでもない)、むしろないのが当たり前だと思う場合でも、何とはなしに、そのトンネルが長いのか、短いのか、わかるようになった。
 これも自分が旅慣れたことの、ひとつの証だと思う。そして、時刻表や、出立前にざっと下調べをした感覚から、英介は、このトンネルこそが仙人峠越えと同じ意味を持つ、北上山地の分水嶺(サミットと言って良いだろう)を越えるトンネルなのだと直感した。
 果たせるかな、山越えの勾配と相俟って、トンネルを抜けるのにはかなりの時間がかかる。勾配が下りにかかったかな、と思ってからしばらくして、ようやく行く手が白んで来た。出口である。
 トンネルを出ると、線路はもはや下りをひとすじにめざしていることが、よくわかる。そしてほどなく短いトンネルが待ち受けており、列車は勾配を下りながら、短いトンネルをいくつかくぐりぬけた。
 すると右手の眼下に、川のどんづまりのような土地にひらけた集落と、石炭の積み出し施設のようなもの(注2)が見え、駅も見える。山の奥の側には、長屋のような形の集合住宅が並んでいるのも見てとれた。
 ああ、あそこが陸中大橋らしい。と、思う間もなく、列車はふたたびトンネルに進入した。今度はこれまでの短いトンネルと違って、さきほどの峠越えのトンネルほどではないかも知れないが、かなり長そうだ。
 それにさっき見た町や駅に向かうには、方向が違うのでは、と思ういとまがあったかどうか、進路は左の方へカーブしはじめている。
 英介には、その動きにぴんと来るものがあった。ループである。山岳路線では、高度差をかせぐために、直線ではなく大きな半径の曲線で二地点を結ぶ線形をとることが多い。場合によっては、それがそのままトンネルになるのである。いま陸中大橋へ下ってゆくこの第二大橋トンネルも、まさにその、きわめて雄大なループトンネルなのであった。
 地図で見ると、まさにΩ(オメガ)の形どおりのカーブであるから、はじめはやや左へ、そして大きく右に回り込みながら、はっきりとした下り勾配を、列車は進んでゆく。そしてトンネルを抜け出ると、つい先ほど通りすぎて来たトンネルの前の部分の線路が、右手上方につづいている。ほどなく列車は陸中大橋駅に身を休め、「仙人越え」は無事に果たされたのである。
 それにしても、蒸機機関車の時代に陸中大橋から上有住をめざす上り列車は、大変な難儀をしただろう。英介の身中を、戦慄に似たふるえともしびれともつかぬものが走った。そしてまた、軽便鉄道の仙人峠駅から索道で荷駄を運び、徒歩や駕籠で旅客が峠を越えていた時代、この大橋に下りて来た人々は解放感とともに疲れを癒し、逆に上ろうとする人はこれからの苦難に気を引き緊めたことであろう。
 何となく、英介は頭を垂れる思いだった。さらにまた、ひとつの峠を越えて来た自分のいまの心境を、大学時代の終焉という、道中おぼろげに意識していた現在の境遇に、重ね合わせた。
 自分の現在の境遇や思惟、それは自らが選びとって来た結果でもあるし、自己の意志では選択することのできなかった事象の帰結でもある。英介にとっては、幼なじみに近いくくりから、大人としての人生をかける過程で離ればなれにならざるを得なかった早希子の存在こそが、後者に属する最大のものであった。あるいはそれを、自らの意志でつかみとる対象とするべく行動することもあったけれど、未だに果たすことはできずにいる。
 仙人峠を徒歩で越えていた時代、駕籠の代金は非常に高かったばかりか、それ以上に法外な手間賃を要求する駕籠舁きがおり、不評だったという。
 そのことを思い出し、英介はこんなことを考えた。自分の足で峠を越えることのできない旅人は、泣く泣く法外な手間賃を、支払ったのだろう。自分の足で、自分の力ですべてを処することができるなら、それに越したことはない。だがそれができない時期というものも、たしかに自分にはあった。これからは自ら峠を越え、己の道をしっかりと踏みしめて行かねばならぬ。そういう自分であるならば、いつか早希子と再会した時も、きっと確かな自分でいられるだろう。
 無論、意志の力だけでどうすることもできない場合があることも、十分に承知している。そんな時は、これまでの旅で出会った人や、その言葉、さらには苦しい時の自分を支えてくれた先人の言葉などを、静かにかみしめてみるのも良い。
 仙人越えの道中は、いつかそのような考えを、英介にまとわせていたようだ。釜石から来た行き違い列車がホームに停まり、入れかわりに、英介の乗る列車が静かに走り出す。先ほどまでのきびしい山中の眺めから、ようやく海へ向かおうとする明るい兆しが感じられ、英介は、ゆっくりと目をつぶってみた。

つづく
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 三.山の果てに海ありて−釜石 @

2018年01月25日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 三.山の果てに海ありて−釜石 @
                                   
 昭和がいよいよ六十年をかぞえた、その年の二月。英介は、花巻から釜石へ向かう釜石線のディーゼルカーの車上に、旅の身を遊ばせていた。
 卒業論文を無事に提出し、教授の認めをもらったあと、いくつか残していた学科の試験も終了して、卒業を待つ身である。
 卒論執筆のため、平泉を三度、同所とあわせて山寺(立石寺)を二度、さらに尾花沢と最上川を一度たずねるうち、芭蕉の歩いたみちのく南部への親しみは、英介の身ぬちに抜き去りがたいものとなっていた。卒業を控え、これまで足を運んでいない三陸の海辺を見てみたいと考えて、とりあえずアルバイトで稼いだ金のつづく限り、と、思いつくまま旅程も立てずに出て来た旅なのだ。
 釜石へ向かう起点となる花巻では、雪が舞っていた。いや、前日平泉を歩いたあと最初の泊地とした一関から、盛岡行きの普通電車に乗ったその時も、雪はちらついていた。はじめて奥松島や女川を訪れたおととしの夏にはまだ現存していた、仙台発青森行きの客車列車なら、この雪がもっと似合うのに、と思ったものである。
 花巻では、あまり時間の余裕がなかった。宮沢賢治の故郷であること、郊外に高村光太郎が「独居自炊」した山荘があることなどは知っていたが、今回は当初から、花巻は乗り換えだけのつもりでもあった。
 旅にあっては、できるだけ遠い方へ、遠い方へと身を運ぶ旅人の性質が、いつか英介にも自然なものとなっている。新幹線の新花巻駅もまもなく開業するし、春から社会人となる境遇を考えれば、交通の便の良い花巻をたずねる機会を作るのは、このあともさほどむずかしいことではないだろう。それよりも、時間に制約のない今回の旅では、釜石へ出て三陸海岸を存分に見てみたい。遠く時間のかかる地方ほど、行ける時に行くべきだ、そんなことを思いながら、雪の花巻のイメージだけを胸に刻んで、釜石線への乗り換えを急いだのである。
 花巻を出てしばらくの間、列車は北上盆地ののどかな田園風景の中を走った。雪がうっすらと積もった田畑の様子は、それだけで何とはなしに賢治の農学校教員時代の姿を髣髴させた。そしてこの釜石線が銀河鉄道のモデルであったことを思ううち、英介の胸中に宮沢賢治へのあこがれも、また大きくふくらんで来たのであった。明日以降の予定は決まっていないから、どこを回っても、最後は花巻で下りてみようか。そんな企ても、いっとき英介の脳裏をかすめて行った。
 ここまで来て、はじめて気づいたが、岩手には心をふるわせる文学者の息づかいが満ちている。平泉の芭蕉にはじまり、花巻では賢治と光太郎、さらに盛岡へ足を延ばせば、そこは啄木が旧制盛岡一中時代を過ごした土地である。時刻表には、彼の生まれ故郷である渋民の駅名も見える。
 そして、英介がいま体をあずけているこの列車は、間もなく北上山地への上り勾配にさしかかり、あの遠野へ行くのである。
 遠野物語。その言葉の韻きに衝き動かされるほどには、英介はまだそれをきちんと読みこんではいない。大学に入ってほどなく、書店で文庫本を購入したものの、その時はまだ少し難解に思えて、しばらく本棚に置きっぱなしにしていた。今度の旅に持参しようかとも思ったが、旅先で土地の本を購入することもままあるため、時刻表以外の荷物はできるだけ少なくしたい。それが旅の常である。
 だから結局、旅行鞄に文庫の遠野物語を入れて来ることはなかったが、花巻へ着く少し前から、遠野は英介の気持ちの中での、釜石線のサミットのように位置づけられていた。
 サミットとは、頂上を指す言葉である。鉄道線では、その線中の最高地点の意で用いられる。そしてこの釜石線には、特筆すべき「頂上」があるのだが、それとは別に、遠野という土地が欠くべからざる道標として心のうちに点じられているのである。
 それにしても、鉄道線のサミット、もしくは峠に惹かれるようになったのは、いつの頃からだろう。平泉を訪れ、さらに山寺をめざす時、仙山トンネルというサミットがある。また昨年の秋には、はじめて碓氷峠の天険を越え、わずかに聞き知っていた峠越えの鉄道技術の巧みさに舌を巻いた。そのまま小諸から小淵沢まで小海線を乗り通し、国鉄全体のサミットである野辺山‐清里間の鉄道最高地点も目に収めた。
 それらの難所を越える時、その道を切り開いた先人たちの奮闘に畏敬の念を覚え、心がふるえる。英介は、旅にあってそれらの事蹟に触れることに、強いあこがれを持っているのであった。
 とつ追いつそのようなことを考えているうち、列車は岩根橋に到着していた。山間の小駅である。ホームは片面一線だが、側線が二本あり、駅員の姿も見える。ほとんど乗降はなかったと思われたが、発車間際になって中年の婦人が一人列車に走り込み、それを見届けると、一人だけいる駅員が、みじかく笛を吹いた。
 見知らぬ土地で、そこに住む人々の生活の香り、息づかいを感じる一瞬が、英介は好きだ。それは列車交換のためのタブレットの受け渡しを目撃する時も同様だ。英介は声には出さず、心の中で一人ごちた。「うーん、いいなあ。」
 やがて列車は、宮守に到着した。ここでは上下列車の行き違いがあるのではないか、と思って時刻表を見てみるが、タイミングは合っていない。窓の外に目をやると、雪は小やみになっており、山肌はところどころが白く、はだらに染められている。英介は、間もなくその最終シーンを迎える大学時代の四年間のことを思った。そこに後悔はなかったが、いわゆる青春を謳歌したというのともすこし違う自分のこれまでの歩みに、けりをつけなければならない時が来るのだろう。その時を迎えるために、自分は何をこの旅で見出すことができるのだろうか。
 ふと気がつくと、列車は橋梁にさしかかっていた。宮守川らしい。幾度か鉄道雑誌で見たことがあるが、沿線の好撮影スポットとなっている橋梁だ。川を渡るSL牽引列車の様子は、かなり鮮明に記憶している。が、それ以上に、この橋がけっこうな上りの勾配となっていることが感じられる。いよいよ遠野へ、そしてかつては鉄道の建設を阻んでいたというきびしい山越えへの予感に、体が引き緊まる。
 そして列車は宮守川を渡り切り、以後一駅をかぞえるごとに、遠野が近づいて来る。英介は、やはり文庫の『遠野物語』を持って来るべきだったかと、ちらと後悔した。しかし昨日手に入れた宮城産の銘酒「一ノ蔵」の小瓶から、これも昨日残しておいたお茶の容器の飲み口に五勺あまりを注ぎ、ついと口へ運ぶと、この旅はこれでよし、と思いを切りかえることにした。
 はじめてみちのくを訪れたおととしの夏にくらべると格段に、汽車での一人酒が板についている。そして気動車のボックス席に一人でいても、以前のようにそこに在るべき連れのいない虚しさがうすれており(それは英介の心の奥底から、決して消えるものではなかったが)、真に旅慣れた旅人の一人ごころが、すっかり自分をひたしていることを知るのだった。

つづく
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 二.ゆくりなき会い B

2018年01月23日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 二.ゆくりなき会い B

 「そういうことでしたの。」
 英介は店で冷たい麦茶をふるまわれ、後を追った非礼を詫びると、かいつまんで自分と早希子とのこれまでのことを、雪江と名乗るその店の女主人に話したのである。女主人とは言っても、雪江はまだ三十少し手前で、小さな女の子が一人、いるとのことだった。
 「でも幸せね、その娘さん。あなたのような人に、そんなふうに思われて。」
 雪江はカウンター越しに英介の目を見つめながら、そう言った。しかし英介は、その言葉をそのまま受けとることができなかった。
 「そうでしょうか。向こうはもう僕のことなんか忘れてるかもしれないし、第一、生きているのかどうかさえ・・・。」
 英介は、自分でも思ってもみない言葉が飛び出して来たことに驚いたが、より以上に、強い調子で雪江にたしなめられて、たじろいだ。
 「さがせばいいじゃありませんか。女川くんだりまで来て、こんなおばさんを追いかけるぐらいなら。」
 それは英介が生まれてはじめて触れた、大人の女の怒りであった。 
 「船の事故ではね、遺体が見つからないことも多いんです。さがすこともできなくて、百パーセント帰ってこないこともわかっていながら、それでも心の中のどこかで、もしかしたら、って待つ気持ち、あなたに想像できる?・・・それにくらべたら、あなたの早希子さんは、どこかで必ず、生きているはずじゃありませんか。」
 きびしく詰め寄られて、英介には返す言葉がなかった。雪江は口調をやわらげながら、さらに英介に、こう語ってくれたのである。
 「きっと早希子さんの方でも、あなたのことを思っているわよ。ただ、今は帰れない事情があるんでしょう。待つのがいやなら、アメリカでもどこでも、迎えに行きなさい。もうどうにもならない、ってことになってからじゃあ、遅いのよ。ね。男でしょう。」
 雪江の口ぶりは、まるで姉か叔母のようだった。英介が顔を上げると、雪江は静かにほほ笑んで、付け加えた。 
 「生きていればいいのよ。生きてさえいれば。」
 雪江はそれ以上は、何も言わなかった。だが英介には、いまの雪江の言葉は、ほかならぬ雪江自身の人生そのものから紡ぎ出された言葉なのだと感じられた。年若い英介には、それ以上雪江の境遇をたずねることははばかられたが、雪江が何を自分に言いたいのかは、よくわかった。
 「わかりました。ありがとうございます。僕も早希子も、生きている限りいつかはきっと、会えるはずだと思います。」
 「そうよ。がんばってね。きっと早希子さんを・・・。」
 雪江は言葉を切ったが、いま一度正面から英介の目を見つめた。そこには言葉より深い、慈愛のごときやさしさがあった。
 英介は一礼し、そのまま店を出ようとした。するととつぜんその背中を、それまでとは打って変わってふり絞るような雪江の声が、追いかけて来た。
 「ほんとうはね、私もあなたを見かけた時、あの人に・・・!」
 驚いて英介がふり帰ると、雪江の双の眸がうるんでいた。が、すぐに雪江はかぶりを振りつつ、作り笑いを浮かべて言った。
 「ううん、何でもないの。ごめんなさい。早希子さんと無事に会えたら、一度ここへも遊びに来てね。・・・さようなら。」
 そして雪江は英介を押し出すように店の外へ送り出すと、すぐに戸を閉めてしまった。
 英介はしばらく店の前にたたずんでいたが、やがてその耳に、かすかに鈴(りん)の音が聞こえてきた。店の奥にあったらしい仏壇の前で手を合わせる雪江の姿が目に浮かび、英介はふかく最敬礼をして、その場を辞した。

 十七時二十分すぎ。女川駅のホームで、英介は折り返し四十三分発の小牛田(こごた)行き列車を待っていた。
 雪江の店を出てから、一度駅へ戻り、時刻表を見て石巻の旅館に電話して、今夜の宿を確保したのち、ずっと女川の海辺を、歩いていたのである。
 英介には、この女川が、去りがたい場所となっていた。ゆくりなくも出会い、自分と早希子のことを、聞いてくれたひと。早希子によく似た顔立ちのそのひとは、自らもつらい過去を負っていながら、自分をはげましてくれたのだ。早希子と似ている点を省いても、英介が雪江に慕情をいだくのは、当然のことだった。
 夕方には店が開くだろうから、今度は客としてたずねてみようか。そんな考えも起こったが、それは雪江に迷惑でこそあれ、決して歓迎されるものではあるまい。その企みは、すぐに放念した英介だった。
 しかしこの女川を去りがたい気持ちは、抑えようがない。そこで夕刻の列車の時間まで、せめても女川の海と町を、自身の旅ごころに刻みつけて行こうと決めたのである。青い海のおもてにカモメが舞い、どこまでも明るい女川の海は、英介の心を果てしない空のかなたまで、解き放ってくれるようだった。そして女川の町には、強くうつくしく、けれどかなしい一人のひとが、暮らしている。
 トンネルを抜けて来たらしい、折り返し列車の汽笛が聞こえた。女川と石巻をへだてる山には、もう夕暮れの気配が忍び寄っている。英介のほかに、ホームで列車を待つ乗客の姿はない。
 ほどなく列車が到着すると、英介の胸中で、はげしい感傷の嵐が渦を巻いた。昼前、自分は早希子のことだけを考えながら、この駅に来て、早希子によく似た雪江のあとを追った。おそらく自分の行動に対しては、望んだ以上の報酬が与えられたことだろう。だが結局それは、雪江を苦しめただけのことだったのではないか。雪江の言葉がよみがえる。
 「生きていればいいのよ。生きてさえいれば。」
 英介は、心の中で、手を合わせるばかりだった。雪江のことは、おそらくずっと、忘れることがないだろうとも思われた。
 女川駅での列車の折り返し時間は、十五分あまりである。何人が乗ったのかわからぬが、車内はがらんと空いたままで、英介を一期一会の女川から連れ去る列車は発車した。
 駅を出るとほどなく、線路はゆるやかにカーブして、さいぜんホームから眺めた山のふところに入ってゆく。ピーッ、と汽笛を鳴らし、列車は女川との別れをかぎるトンネルへと進入する。
 英介は、じっと目をつぶった。雪江のまなざし、またほほ笑みが、まなうらに浮かぶ。
 会わなければよかったのか。いや、そうではあるまい。かならず早希子をさがし出し、生きてあることの恵みを享けることで、あのひとの思いに報いることが大事なのだ。                                 
 トンネルを抜けると、やがて行く手に万石浦が見えて来た。ちょうど日が暮れようとする頃合いで、空にはオレンジ色の残照がのこっているが、水面はもうその照り返しを薄れさせており、ところどころに船のあかりが浮かんで見える。そして浦の対岸の山の端には、もうじき黄白色の月が、姿を見せるのだろう。
 英介は、早希子と雪江、二人の女の俤を追っていた。一人はこれからすべてをかけて求めてゆくべき相手であり、一人はもう二度と会うことのない、人生のしるべを与えてくれたひとである。
 いまのこの須臾(しゅゆ)の間にかぎって、雪江を慕う気持ちの強い自分を、英介は肯定した。雪江と出会うことがなかったら、早希子を何としてでも得ようという決意は、生まれて来なかったかも知れない。昨日までのようにただ何となく、かつての痛みを甘い感傷に置きかえて、ただ待つだけの日を送る人生になったかも知れないのだ。
 英介は、自分に力を与えてくれた雪江の強さは、海に生きる人の覚悟と強さではないかと考え、そしてまた、雪江にもいつか転機のおとずれることを、願わずにいられなかった。
 夏の夕暮れの万石浦は、英介の心を映すかのごとく静かだった。静かな水面のところどころに、漁船の水脈(みお)が白くあざやかな影を引いていた。
 
 ゆくりなき会い 了






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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 二.ゆくりなき会い A

2018年01月21日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 二.ゆくりなき会い A

 ひとしきり駅前を検分してから、さて、これからどうしたものか、と思案する。
 先ほどの女子高生たちは、制服の上級生の先導で、市内の南の方角へ、歩いて行った。英介には、まったく当てもなければ、予定もない。そろそろ帰省するらしい太田の日程がわかれば、一日太田の家をたずねることにはなっている。しかし今夜ひと晩は、間違いなく一人でどこかに泊り、夜太田の家へ電話する手はずになっているのだ。
 だから今日の英介は、どこで何をするのも、勝手気ままなのである。そうした制約のなさも、彼の心をほうぼうへ遊ばせる助けとなっているのだろう。
 所在なく、英介は駅頭の案内地図を見上げていた。港は少し遠く、ぶらぶらと歩いて行くような位置関係ではないようだ。旧北上川なら歩いて行けそうだから、行ってみようか。平泉からはるばる流れ下って来た北上川の、河口近くの姿を見てみるのもいいだろう。そう思った時だった。
 英介の視界の端を、一人の女が横切った。英介は、最初ちらりと視線を送っただけだったが、改めて案内地図に目を戻そうとしたところで、心臓が大きくどくん、と鳴った。
 石巻線の改札の方へ歩いてゆく、うしろ姿。まさかこんなところで、と思いつつも、英介の足は、自ずと女のあとを、追いはじめていた。肩のあたりで切りそろえた髪、少し内向きに足を運ぶ歩き方、そしてちらりと見た目鼻立ち、そのすべてが、女が早希子であると示しているように思えたのである。
 しかし英介は、追いついて声をかけるという行動には移れなかった。とっさのことで気持ちが定まらないのと、人違いだったらどうしようという分別、そしてまたそれだけではない。女がもし早希子だったら、日本に帰って来ていながら、自分には連絡もして来ずに、東北の海辺でひっそり暮らしている彼女と、再会を果たして何になるのだろう。女のいでたちは、旅行者のそれではなく、土地に住まう日常の匂いをそのまま放っている。かりに早希子がここで日々暮らしているなら、おそらくその境遇は、英介がずっと望んで来た再会を、ゆるさぬものであるに違いない。そんなことを瞬時に思いめぐらしてしまったため、英介は女に声をかけることができなかったのだ。
 女は切符を買うと、どんどん改札の中へ入ってゆく。英介は、ままよ、と覚悟を決めた。ここで女を見失ったら、あとあとまでずっと後悔する。このあと何を見ることになろうとも、女が早希子であるのかどうか、そしてもしそうであるなら、その人の現在がどんなものなのか、それだけでも見定めなければ、と思いを固め、ふたたび周遊券をとり出して、石巻線の改札口に駆けこんだ。

 ホームには、女川行きの列車が入って来たところだった。これは英介にとって、都合がよかった。女が早希子であるかどうかはまだわからないが、さして乗客の多くないホームで、あとを追って来たと勘づかれるかも知れぬ自分が身をさらしては、不審を抱かれかねない。もっともそれは汽車に乗っても同じことか、と思ったが、石巻線の列車はディーゼルカーでボックスシートなので、仙石線のように一輌ぶんすべてが見通せる状態でないのも幸いした。英介はそっと、女が座ったボックス席の三つほどうしろに身を置いた。
 駅を出ると、市街地を少し走るうちに、小高い山が見えて来た。間に川があるらしく、その川が次第に近づいて、渡る時には「北上川」の標識が、英介にえも言われぬ感激をまとわせた。
 が、それ以上に、女のことが気にかかる。あれは本当に、早希子だろうか。そしてもし早希子だとしたら、どうしてここにいるのだろう。帰国していて、連絡のひとつもよこさないとは、やはり昔だれかが言っていた、良くない噂と関わりがあるのだろうか。いや、そんなはずはない・・・。
 こんなことを考えながらも、英介は、件の女が停まる駅で下車しないかどうかにだけは、気を配っていた。やがて線路は大きく弧をえがき出し、渡波(わたのは)という駅に停車する。ここはもう海が近い、港町の雰囲気だ。さらに次の沢田駅の手前から、美しい内海の眺めが、手のとどく近さに迫って来た。
 夏の日ざしを受けて、おだやかな海面がきらきらと照りかがやいている。海沿いのカーブをゆっくり走る列車の中で、英介はいつしか、早希子と二人で旅をしているような気分になっていた。一人旅ではいつも隣の席が空席で、そこに満たされない思いが残る。でも今は、早希子がそばにいてくれる。
 列車が内海の万石浦(まんごくうら)に沿って走る数分間、英介はそんな幻想のとりこになっていた。美しい水面(みなも)には、自分と早希子、二人の顔が並んで映っているようにさえ思われた。
 しばらくして線路が海辺から離れると、次は終点女川、のアナウンスが流れた。甘い夢想を破られた英介に、今度は緊張の時が訪れる。列車の二輌分を合わせても、女川で下りるのはせいぜい十数人ぐらいと思われる。いよいよ、どんな形であろうとも、いまのこの状況にけりをつけなければならないのだ。
 列車が女川の駅で動きを止めると、女は前寄りのデッキに歩をすすめる。とりあえず、少しの間をとるために、英介は後ろ寄りのデッキへ向かった。
 ホームに下り立つと、たしかに終着駅の構造ではあるのだが、幅が狭い。同じデッキから下りなくてよかったと、改めて英介は考えた。このホームでうしろからつづいて下りたら、そこで声をかけなければ、あとから機会を作ることはできないだろう。しかし車輌一輌ぶん、二十メートル弱の間があれば、気どられずにあとから追うこともできそうだ。
 追うとは言っても、確たる目的があるわけではない。ただ旅先で思いがけず邂逅したかに思われる、早希子かも知れない女について、その真偽をたしかめたいだけである。むろん相手が早希子であったら、その時は、それだけではすまない何かがあるのだが、とにかく英介は、このまま何もなかったことにだけはするまいと、心に決めたのである。
 細長いホームから階段を下りてゆくと、大きくはないがなかなか貫禄のある駅舎がある。英介は、改札の手前で自ずと歩みをゆるめた。女がどのような行動をとるか、わからないからである。
しかし女はこの町の住人らしい足どりで、迷うことなく改札を通りぬけ、そのまま駅舎から左の方へ歩いてゆく。
 英介は、あわててついて行こうとして、駅員に呼び止められた。切符を出さずに出ようとしてしまったのだ。詫びを言いながら周遊券を示し、急いで外に出ると、女はちょうど日傘をさすところだった。
 その時に垣間見た顔だちは、やはり早希子に、生き写しのようだった。ただ日傘の柄といい、落ち着いたしぐさといい、何やら自分たちより少し年かさのようにも思える。そう言えば、ホームから改札へ向かう足どりからも、今思うと同じ落ち着きのようなものを感じていた気がした。
 ふたたび、英介の心中に迷いが生じた。こんなふうに感じるということは、あの人は早希子などではないのではないか。この上、変にあとを追ったりして、変質者か何かと誤解されたりしないだろうか。
 しかしもう一方で、早希子に会いたい、早希子に会いたいと、はやる心がある。石巻で最初に見かけた時と同じように、ここで確かめずに帰ったら、悔いが残るだろう、そもそも女川まで来た意味もないではないか、と、だれかが自分にささやくようだ。英介はまた思い直して、今度は先ほどよりももっと離れて、そっと女の行くあとをたどりはじめた。
 海が近い。万石浦から牡鹿半島の付け根を横切って、東側の女川港、女川湾の側へ、来ているのだ。
万石浦の車窓を眺めていた時の愉楽が、一瞬英介にもどって来た。何はなくとも、早希子と会えるかも知れないという期待を持ったまま過ごす時間の、何とゆたかなことか。長い間、君の帰りを待っていた。そう早希子に告げる瞬間を夢見るような陶酔に、いつか英介はおちいりかけていた。
 が、次の瞬間、英介はぎくりと足を止めた。ずっと前を歩いていると思っていた女が、十五メートルほど先の、小料理屋とおぼしき小さな店の入り口の鍵を開けながら、こちらを見ていたからである。
 そのまなざしに非難の色はないが、明らかに、何かを英介に問おうとしている。そしてその相貌は、早希子によく似ているけれど、やはりいくつか多く年輪を刻んだ女の顔であり、早希子本人でないことははっきりしていた。だが英介は、ここまで来たら無礼を詫びる意味でも、きちんと話をしなければと考えた。そして軽く会釈しながら、女の待つ方へと足をすすめた。女は会釈を返しつつ、英介の額に汗が浮かんでいるのを目に留めて、英介を店の中へと招き入れた。

つづく

                  
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三陸の鉄路よ永遠に−たまきはる海のいのちを 二.ゆくりなき会い @

2018年01月19日

 謹んで、本作品を東日本大震災で犠牲になられた方々に捧げます。 

 二.ゆくりなき会い @
                                   
 八月。河口近くにひらけた沃野を、唸るようなモーターの音を響かせながら、軽快に電車が疾走してゆく。
 ササニシキであろう。周囲はいちめん、色はまだ青いがそろそろ実をたくわえはじめた稲穂がおおい、ぎらぎらと照りつける日ざしを受けながら、電車の巻き起こす風になびいている。
 英介は、うーん、と大きく伸びをした。夏の旅、そのえもいわれぬ昂揚感と、主将として無事合宿を実行し終えた充実感、解放感とが、体中をひたしているようだ。
 大学三年、執行部のつとめを果たし終えた上での、ひとり旅。英介は、自分がはじめて本当の旅に出るように思え、宿泊先の民宿で、朝まだ暗いうちからわくわくしていた。
 通称奥松島と言われる宮戸島、その月浜での二泊の合宿は、大いに盛り上がった。夜、浜辺で宴会をしている時、一人はなれて海を見ていた英介のかたわらに、後輩の智子がそっと寄って来て言ったひと言が、脳裏によみがえる。
 「先輩、一人で何してるんですか。まるで誰かのことを、思いつめていたみたい。」
 振り返ると、にっこり笑っている智子の顔が、一瞬早希子の俤(おもかげ)と重なって、英介は思わずかぶりを振った。
 「何でもないさ。さあ、飲むぞ飲むぞ。」
 そう言ってごまかしたが、その時英介はふと智子に対して、早希子とのいきさつを語ってみたい衝動に駆られたのだった。それは夏の夜の甘い誘惑で、早希子の帰りを待つことに決めた自分の心が目の前の智子に傾くのをおそれて、あわててきびすを返したのである。月浜に降りそそぐ夏の夜の満月の光は、ふだんはさまでに意識していない智子の顔ばせを、はっとするほど魅惑的に見せていた。
 かすかな甘い疼きを覚えながら、英介は時刻表に視線を落とした。石巻まで、二十数分。帰京する一行の先導役は悠吾にまかせ、野蒜の駅で皆と別れて、ひとり下りの電車に乗って来たのである。智子はずっと、大きく手を振りつづけていた。
 
 英介は、そんな智子の姿をふり払おうとして、今回は持参して来た文庫の『おくのほそ道』を手にとった。
 芭蕉は松島では、句を詠んでいない。少なくとも『おくのほそ道』には、書きのこされていない。そのために、感きわまって「松島やああ松島や松島や」としか詠めなかったという俗説が伝えられるところとなったらしい。
 そして芭蕉と曾良は、松島から石巻を経て、平泉をめざす。あまりにも有名な「松島」から、ほどなく旅程が、
 
  夏草や兵どもが夢の跡

の秀句で知られる平泉へ至る途中になるので、松島を過ぎて石巻に向かうくだりは、学校の教科書などに引用されることもないようで、『おくのほそ道』の中でもあまり目立たないものとなっている。
 だが、改めて読んでみると、これがなかなか面白い。
 近代以降、都市に人口が集中するようになる前は、地方の港町で、大変な繁栄を見せた場所がある。山形県の酒田はその代表格だし、もっと時代をさかのぼると、いまは十三湖という湖だけが残る津軽半島北部の西側に、十三湊(とさみなと)が大いに栄えていたという。
 そして芭蕉によると、当時の石巻もまた、活気のある港町であったらしい。その様子は、「竈(かまど)の煙立ちつづけたり=多くの家屋から、炊事の煙がしきりと立ち上っている」と記されている。
 また、この石巻のくだりには、芭蕉はまっすぐ平泉へ向かうつもりで、進路をたがえて石巻に出たと書かれている。本当に迷ったのかどうかはともかく、東北本線と仙石線がもつれ合うように接近したり、交差したりしているあの松島付近のことを考えると、あるいは本当にどこかで分去れを踏みまちがえて石巻に至ることも、あったのかも知れない。
 英介は、例の松島海岸手前の仙石線と東北本線との並行区間について、今回は十分に心づもりをして来たので、合宿に向かう行きの車中では、食い入るように両線の交わる様子を見つめていた。
 線路のまわりには夏草が生い繁り、並走するのは間違いなく複線の東北本線だった。その様子を見るだけで「夏草や・・・」のおもむきにふれる思いがして、心がふるえた。現代の鉄道線が寄り添って走るほどの隘路を抜けるのだから、その先の松島からでも、ひとつ間違えれば平泉へ向かうつもりが石巻へ、ということも、十分あり得たのではないか。英介はそう考え、まだ見ぬ石巻の町に思いを馳せた。
 
 矢本という駅に停まると、大きなスポーツバッグを提げた女子高生が七、八人、にぎやかにおしゃべりしながら乗りこんで来た。みな真っ赤に日焼けしている。
 一人をのぞく全員が、校名の入った体操着にジャージだったが、最後に乗って来た上級生らしい一人だけは、制服を着ていた。英介は、はっと胸を衝かれた。
 女子高生の制服姿など、東京での日常にあっては、見なれたものである。同じように、日々の暮らしの中で早希子のことばかり、思いつめているわけでもない。けれどもどうしてか、英介は数年前の早希子の姿を、思い出してしまったのである。
 当時、早希子の高校の制服は、私学だけに垢ぬけていて、高校生の間ではちょっとした評判だった。通学の朝や土曜の帰りがけに会う時など、彼女はいつもその制服だったし、高校二年の時に別れたままだから、今の英介にとって制服の鮮烈な印象は、そのまま早希子に通じるものなのだ。
 しかしながら、見知らぬ土地で、ゆきずりの縁もゆかりもない女子高生に行き会っただけで早希子のことを思うなど、英介自身にも思いもよらぬことだった。それは月浜の夜の智子との接近の影響なのか、それとも遠くアメリカまでつづいているかのような月浜の海そのものが、英介の心を早希子のもとへ連れて行こうとしているのか。もちろん英介にも、そのどちらか、あるいは別の何かが理由なのか、いっこうに見当さえつきはしない。
 ただ彼の心は、この旅でひときわ鋭敏になっているのだろう。旅は心を解き放ちもするし、普段気づかぬことに思いが及んだりすることも、しばしばある。英介も大学生になってから相当に旅を重ねているので、何とはなしにそれだけはわかるのだった。
 聞くともなく聞いていると、女子高生たちは石巻市内の他の高校まで、何かの試合に行くらしい。この土地の言葉になじみは薄いが、級友の太田がここからさほど遠くない鳴子の出身だから、そこはかとない親しみが感じられる。
 やがて左手の方から架線のない単線が近づいて来るのが視界に入った。石巻線だろう。これが合流すれば間もなく石巻駅、と思っていると、一度は完全に並んだ線路が、終着駅停車のために電車が大きく速度を落とすのにつれ、するすると離れて行く。どうしたことかといぶかるうちに、電車はもう完全に停止して、「終点、石巻ー」と、駅の側のアナウンスが聞こえて来た。
 下車した場所は、仙石線だけのホームであり、人の流れに従って歩いて行くと、やはりこの仙石線だけのものらしい、改札口と駅舎があった。
 英介は少なからず驚いたが、同時に胸の奥では旅ごころが躍動していた。すぐに東北ワイド周遊券を見せて改札を抜け、駅前へ出てみる。すると左手の方に、石巻線の石巻駅があり、こちらはいかにも国鉄駅らしいたたずまいだ。振り返って仙石線の駅舎を見ると、二階建ての私鉄ふうのイメージである。
 英介は、ははあ、とここで得心した。六月に下見に来たあと、気になって、仙台や松島と仙石線のことを、大学の図書館で調べてみた。この石巻駅のことまではわからなかったが、その中で、仙石線がかつては宮城電鉄という私鉄であったことは、知識におさめていたのである。ここ石巻で仙石線と石巻線の駅が別になっているのは、そのためだろう。
 来てみないと、実地に旅をしてみないとわからないことが、たくさんある。英介は、下見の時に野蒜の駅で感じたのと同じか、あるいはそれ以上の感慨を、石巻駅の前に立ってかみしめていた。そして売店に足を運んで、よく冷えていそうな缶ビールを一本買うと、かわいた喉に流しこんだ。

つづく
posted by 小田原漂情 at 14:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小田原漂情・未発表小説篇