言問文庫〜読み物のページ

文京区の総合学習塾「言問学舎」の舎主であり、小説家・歌人でもある小田原漂情の作品をご紹介いたします。

あばれ天竜ひとり旅 二.

2018年10月29日

 ようやく日帰りの大まかな予定らしきものが成立し、旅立つことのできた今日ではあったが、出立が決まってからもずっと、天気予報が気にかかっていた。それは旅程のためである。昨年のようにタクシーばかり使わぬまでも、ふつうの町なり平地なりを歩くのならば、さほど天気を気にすることはない。よく言うところの、風の向くまま、気の向くままと歩くうちには、いろいろな条件に見舞われるのがふつうだからだ。しかし今回は、場合によっては佐久間まで、山路を歩くかも知れないのだ。あまり雨風が強ければ、その歩く行程はあきらめて、バスの終点である水窪(みさくぼ)まで、乗り通さなければならない。
 そしていまひとつ気になったのは、「熊情報」である。昨年、今年と、熊が人間を襲ったというニュースがきわめて多かった。今日、なりゆきによっては歩くつもりの佐久間の山路も、決して熊と無縁ではないだろう。現に「浜松市天竜区 クマ」で検索すると(漢字の「熊」では「くんま」という地名が出て来る)、歩きはじめの山香という集落で二、三年前に、また近くの山では昨年夏に、目撃情報があったのだという。
 熊と天候、そしてもうひとつの条件が、今日の旅路を不確定なものにしてくれている。ところでそのうちの「天候」については、丹那トンネル〈注1〉を抜けたあたりで、まったく懸念がなくなりはじめた。どうやら晴れの空模様なのである。
 駿河と遠江(とおとうみ)の気候、天候は、とうぜん同じわけではあるまい。しかしもう、ここは静岡県だ。とにかく箱根の山を過ぎたわけだから、これから先、空模様が変わることはあるにせよ、先途が晴れ模様であると確信されることは、旅人にとって歓喜の極みなのだと言えよう。
 富士には雲がかかっていたが、それも富士川を渡り終えると、あちらこちらに散らばるくらいの好天へと変わって行った。さらに新横浜を出てから最初の停車駅である静岡では、まさに雲ひとつない青空が、私を迎えてくれたのである。何とめぐまれているのだろう。「ひかり四一一号」が静岡の駅を出て、安倍川の橋梁を渡る時、上流の山なみの向こうには、南アルプスにかかっているかと思われる雲が見え、こちら側の駿河の空は、まるで天までつき抜けるような、真っ青な快晴である。その青空にはげまされるようにして、今日は三本までとしている缶ビールの、最後のひと口を流しこんだ。

 次の停車駅は、浜松だ。はじめて新幹線で西へ向かった時は、静岡駅も浜松駅も、まだ在来線が地平ホームで、特に浜松は、かなり距離が離れていたはずだ。二度目の高校の修学旅行の際には、どちらの駅もそれが高架とされて間もない頃だったものと思われる。もちろん当時はその詳細を知る由もない。ただ大学に入ってから、新幹線で浜松より西へ行く機会が多くなり、新幹線ホームと同一の高さに並んでいる在来線のホームに、違和感とまでは言わぬものの、ちょっと不思議な印象を持ったことを覚えている。なじみの深い小田原や熱海とくらべてそう感じたのかも知れないが、あるいは記憶のどこかに、はっきり認識していたわけではないものの、昔日の地平ホームのイメージが残っていてのことだったのかも知れない。
 定刻通りの八時三十分、浜松に到着。名古屋時代にいく度かたずねたことがあり、三十二歳の四月の終りに国内全都道府県を歩きおおせた「出雲紀行」に際しては、阪神淡路大震災の運転停止から復旧したばかりのブルートレイン『出雲3号』にここから乗った、思い出深い町である。また、大戦中艦砲射撃を受けたことを含め、小説の舞台として取り上げさせてもらったこともあり、その中で描いた遠州鉄道奥山線(旧浜松鉄道)の遺構も、一度はたずねてみたいと思っている。
 だが今日は、まず遠州鉄道の本線とも言うべき通称西鹿島線、遠鉄電車に乗って終点の西鹿島まで行き、そこからは遠鉄バスの「北遠本線」に乗り換えて、佐久間を目ざすのだ。行きのひかり号でビールを三本におさえたのは、旅程のためにほかならない。まずこの浜松駅、新浜松駅には確実にトイレがあり、遠鉄終点の西鹿島とて、ないことはあるまい。しかしその後は、天候と道路状況、そして熊の心配がなければバスを下りるはずの西渡(にしど)のバス停にこそ水洗トイレのあることがわかったものの、その先の旅程も決まってないし、一時間以上歩くこととて、あるかも知れないのだ。旅の道連れに酒がないのは何よりも不粋だが、さりとてトイレに困るのも、考えものだ。西渡のバス停のトイレの所在は調べ上げたが、そこからの旅程は行ってみなければわからないから、とりあえず行きの車中のビールは三本まで、あとは旅程と相談しながら判断しようということが、今回の酒量にまつわる顚末だったのである。
 さて、なじみのある浜松駅ゆえ、だいたいの塩梅はわかっている。だが、駅弁を入手してから外部の新浜松駅で四十八分発の電車に乗り換えるのだから、小用の時間も考えれば、あまり余裕はない。新浜松駅へ向かうため、一度JRの駅の駅ビルから外へ出ると、たしかに覚えのある町のにおいが、身めぐりをとりまいた。やはり印象が強いのは、「出雲3号」に乗るため夜の十時ごろ名古屋から浜松までやって来て、日付が変わるころまで飲んだ駅近くの小料理屋だ。サヨリの造りが冷えた日本酒にぴったり合った。それから上がった駅の下りホームでは、その数年前に乗ったことのある寝台特急「瀬戸」号を見送って、十分ほどあとに来た「出雲3号」に身をあずけたのだった。その二本の寝台列車が、今では「サンライズ瀬戸・出雲」として、唯一残された夜行列車、寝台列車となっていることも、何かを暗示しているように思われる。「駅」にまつわる記憶は、時として個人の思惟や体験の枠を超え、ある括りでの歴史をからめとっていることがあり、感慨深いものがあるのだ。
 そういえば、このあたりを西へ向かった汽車の旅も、はじめは文字通り電気機関車けん引ながら鹿児島まで丸一日以上を要した客車急行「霧島」によるものであり、その後は新幹線ではあるけれども、あの〇系の「こだま」が中心だった。名古屋に住んで足しげく東西を行き来したころは、〇系主体のダイヤの中で一〇〇系が勢力を伸ばしていき、ほどなく三〇〇系「のぞみ」が主流となる時代だった。

つづく
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あばれ天竜ひとり旅 一.

2018年10月21日

 すこしばかり時代がかったタイトルと、それにくらべて文中で「旅」として登場する場面、とりわけ主題である天竜川の現在のすがたとの間にギャップがあることは、おゆるし願いたい。そんな口上をはじめに述べるくらいなら、別のタイトルにするなり、ちがう書き出しにするなり、いくらでも手法はあると、はなから承知しているのだが、この旅に私をかりたてた動機、すなわち天竜川へのえもいわれぬ思いを書きつづるこの一文のために、やはり「あばれ天竜」の名称は、はずせないものと思われてならないのだ。
 諏訪湖の釜口水門を起点として、流長二一三キロメートルにして国内九位、流域面積は十二位という規模を持つ天竜川、そのスケールの大きさもさることながら、とりわけ私には、天竜川が特別な川だと思われる。
 二、三年ほど前から、夏休み明けの九月と、一年の受験指導を終えた三月の春休みには、日帰りか一泊程度の、軽い旅をするのがならいとなっている。
 ならいと言えば、かつて私は旅が命であると公言するほどの旅好きであり、比較的日常にゆとりのある出版社づとめの頃などは、年平均で二か月に三度ぐらいは、最低でも一泊二日以上の旅をしていたのであった。
 しかし十五年前から塾を経営するようになり、「旅」は日常に付随するものでなく、ごくたまに条件が整った時にだけ、ゆるされるものへと変質した。それすらも覚束なかった数年間のあと、ひさしぶりに旅に出ると、「旅」は微細な粒子となって私をとりまき、また腹の底から私のいのちを活性化させ、躍動させてくれた。いまではこの半年に一度の小規模な旅が、私が私であることを担保してくれているように思われる。
 そのような私の旅であったが、昨年の春と秋の二回は、昔なら歩いたはずの数箇所ですべてタクシーを使ってしまい、内心忸怩たるものがあった。まだ老けこむような齢ではない。今年の春は、泊りで名古屋へ行って、むかし五年ほど住んでいた香流川(かなれがわ)界隈や、帰りがけには知立(ちりゅう)の業平ゆかりの八橋のあたり(『伊勢物語』の「東下り」の前半に登場する土地)を少しく歩いたのではあったが、知らぬ土地をずんずん歩くほどの未知の旅ではなかったため、「今度はしっかり歩きたい」という気持ちが、より強くなって来たのであった。
 さて、今度はどこへ行こうか、と夢想しはじめたのは、いつの頃だったろう。何しろ塾生の対応が一番で、学校の夏休みと言ってもこちらは何がどうなるかわからない。もちろん、ありていに言えば売り上げと休みが比例しているなりわいだから(厳密には「比例」も「反比例」も無論ありえないのだが)、行ってみたいな、という場所はいくつか念頭に上って来ても、実現の可能性を検討できるようになったのは、夏期講習もすでに四分の一を終えようとする、七月の終りのことだった。それも検討するだけにすぎない。三日、四日の旅ができるはずもないということだけははっきりしているが、一泊二日にせよ、あるいは日帰りであってさえ、条件次第では反古になるかも知れないのだ。よほどしっかりした見通しが立つまでは、あまり思い入れを深めることのないように、という自衛の心が、身に沁みついてしまっている。ようやくお盆休みの近くになって、どうやら九月一日、日帰りで天竜川へ、というプランが、現実のものになったのであった。

 その九月一日、朝七時十分に品川駅を発車する「ひかり四一一号」が、私を天竜川への旅に連れ出してくれた。乗車して背もたれに身をあずけると、やはり、身ぬちからしずかに湧き上がり、それでいて五感をほぐしてくれるような力を感じる。五十を過ぎてからは、ほんのおりおりに私を旅に誘ってくれる道祖神か、あるいはどこで呼んでいるかもわからぬそぞろ神の誘いなのであろうか、下車駅とおおまかな道中こそ決まっていても、この私の旅人の本能は、旅立ちの時を迎えてしまえば、若かったあてない旅の日の力と恵みを、おのずととり戻すようである。
 東海道新幹線は、両親の出自が鹿児島だから、小学校一年生の帰省の帰りに、新大阪から乗ったのが最初である。昭和四十四年(一九六九年)の夏、まもなく開業六年目を迎えようという頃だった。次に乗ったのは、昭和五十二年(一九七七年)、中学校の修学旅行の時だろう。この時はもう神奈川の大和市に住んでいたから、小田原からこだま号に乗ったのだ。途中著名な一級河川、富士川、安倍川、大井川、天竜川、豊川、矢作川、木曽川、長良川、揖斐川をかぞえて行ったことを、今もときどき塾の生徒たちに話して聞かせる。
 高校の修学旅行も、九州まで新幹線で行った。高校は厚木にあったから、やはり乗車は小田原からで、行きはたぶん名古屋で、ひかり号に乗り換えたのだろう。帰りが別府から神戸まで瀬戸内海のフェリーという魅力的な行程だったため記憶が鮮烈で、行きの乗り換えを、はっきり記憶していないのだ。ただ名古屋の西口(駅西)の昔の印象があるから、間違いないと思う。また瀬戸内の船旅は、後年社会人になってから二度も繰り返すほど、鮮明で忘れられないものとなった。由布岳のふたつ並んだ峰のなつかしさとともに、当時の高校であの旅程を組んで下さった先生方に、感謝の念をつのらせるこの頃である。
 そして平成二年(一九九〇年)夏からの五年間は、私の人生の転機となった五年間であり、この間、新幹線は東京・神奈川と名古屋とを足しげく往来する、なじみの道となった。実際の乗車回数としても、小田原‐名古屋間は中央東線の八王子‐甲府間と拮抗するものがあるだろう。すなわち、目をつぶっていてもどこを走っているかだいたいわかるというレベルである。
 さて、その東海道新幹線、ひかり号で、今回はめずらしく山側(下り列車で右側)の席を取った。名古屋時代とそれ以前は、三人掛けと二人掛けに分かれている五人掛けの山側が二列席だから、その窓側のE席が決まりだったが、四人掛けに乗るのがならいとなると、海側の方が基本となったのだ。海が見える場所はあまり多くないが、やはり要所要所で海を見てゆくのが、東海道の旅にはふさわしい。それは若い時分、こだま号が空いている平日にのんびり旅をした時の記憶とも、重なっているものがあるのだろう。
 しかし今回は、旅の目的地が天竜川の二俣、佐久間方面だから、浜松到着前にも、天竜川の上流側をしっかり押さえて行きたい。そのため実に久しぶりの、行きの東海道新幹線での山側乗車となったのである。
 久しぶりとは言っても、先述した高校は相模の大山の麓にあるから、すぐに見慣れた丹沢の山景を視界にとらえることとなる。通算してみて、山側と海側のどちらに座ったことが多いのか、たぶん山側だろうとは思いつつも、すぱっとそう決めることができないくらいには、海側の車窓を眺めた記憶も多い。ある時期から0系の「こだま」は指定席が四列席だったし、さらに遡る初期0系の時代には、二列席も三列席も背もたれを倒して反転させるシートで、「こだま」はいつも空いていたから、三列席の前の背もたれを向こうへ倒し、六人がけの状態にして、のんびり旅したこともある。さらに100系時代はグリーン個室を利用したことも何度かあったが、あれもシートを倒してくつろいでいると見えるのは空だけと言いながら、車窓にあるのは「海側」の景だった。
 そのあたりまで含めて考えると、山側、海側のどちらが多いのか、やはりはっきりした答えは出ないようだ。これは、釜無川の谷と南アルプスを優先するか(松本方面に向かって左側)、八ヶ岳や茅ヶ岳を優先するか(同じく右側)で左右を選んだ中央東線の場合も同じである。ただ昔の在来線では、左側、右側という指定はまずできなかった。できたのはA、B、C、Dの指定だけである(もちろん親切な駅員さんなら、海側、山側などの希望にもこたえてくれた)。そのため中央東線などではどちらがA席でどちらがD席か、承知していたし、初めての線区の指定を取る時は、時刻表で可能な限り調べたものである。今、指定席を取る際に、ほぼすべての列車の望む座席が窓口やネットでほしいままに取れるというのは、利便性の向上という点で願ってもないことであるのだが、隔世の感という思いが胸をよぎるのも、しかたのないことかも知れない。

つづく
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旅と鉄道の譜『さらば急行能登』J<完結篇・後>

2014年11月18日

 さて、直江津を出ると、次の停車駅は、糸魚川です。ここで私には、ひとつの決断、というほどではありませんが、見きわめが求められていました。最終的には、この朝6時4分糸魚川発の大糸線の気動車で、松本方面へ向かい、そのまま帰京するのですが、列車が定刻通りに動いてくれれば、北陸線をひとまず富山県の泊まで行って、7分の乗り換えで、下り急行『きたぐに』でとって返して糸魚川まで戻って来る、そういう計画を立てています。しかし長岡の手前で大幅に遅れ、直江津で『北陸』を追い越しはしましたが、直江津駅発車時刻から見ても何分か遅れがあり、予定通り泊へ行くことができるのか、何ともむずかしそうな状況なのです。これからまったく遅れが生じず、むしろ遅れを取り戻すほどの快走を見せてくれたら、と思う間もなく、列車は名立(なだち)トンネルの手前、まもなく有間川駅かというあたりで、ふたたび減速しました。

 この時、私は先刻トイレへ行ったついでに空席の多いことを確認していた普通車に、荷物を持って移動していました。泊でのせわしい乗り換えにそなえ、素早く動けるように、出口が近く二人分の席が空いている場所を、確保しておいたのです。

 名立トンネルを抜けると、名立駅をちらと見て、すぐまた1万メートルを超す長さの頸城(くびき)トンネルに入ります。このトンネルの中に、筒石駅がありますが、頸城トンネルができるまでは、線路は海岸沿いの難所をぐるりと回っていました。旧筒石駅周辺の昔日の姿は、『鉄道廃線跡を歩くU』(JTBキャンブックス)などで見た印象が強く、ここを通るたびに、蒸気機関車が集落の上の橋梁を走った様子を思い浮かべます。直江津から通過して来た谷浜、有間川の各駅も、それぞれ海辺に位置しており、能生(のう)での地すべり災害や複線化を契機として、頸城トンネルを中心とする内陸側への線路付け替えという大工事が行なわれた過去の経緯を思うと、気温も相当低いであろう2月の日本海沿岸をゆく夜行列車に、「遅れを取り戻す」運転を期待するのは、やはり無理だろうと考えられ、私は観念しました。この時点で泊行きは、断念することとしたのです。

 するとこの急行『能登』での旅は、次の糸魚川でおしまいです。季節がら、半ばは覚悟していたことでもありました。しかしこの糸魚川には、新潟の中でも特別な思いを、私は持っています。

 越とほく奴奈川(ぬながわ)姫をたづね来て胸躍らせし神をし思ふ  漂情

 「奴奈川姫」とは、大国主命の伝承に登場する、この地の美女です。大国主命にはもちろん出雲にスセリ姫(須勢理毘売)という正妻がいるわけですが、高志(こし=越)の国の奴奈川姫(沼河比売)に求婚したというくだりが『古事記』にあります(神話の世界のことで、実話が下敷きであるとしても、一夫一婦制ではない時代であり、新しく治めようとする土地の女性を娶るということは、ずっと下った戦国時代にもみられることです)。当地の特産である翡翠(ひすい)の奥深いかがやきと、大国主と奴奈川姫の伝承とが、私にはとりわけなつかしく思われるのです。新潟への出張ぐらしの中でも、年に二度ほどは泊りました。泊りはほとんど「ゑびや」さんでしたが、糸魚川に「ゑびや」さんがあり、直江津に「いかや」さんがあること(出張で行っていた当時、すでに「ホテルセンチュリーイカヤ」)にも、何とも言えない味わいを感じていました。

 見覚えのある浦本駅を確認すると、列車はまた海岸沿いを走ります。そして梶屋敷駅を過ぎて間もなく、糸魚川に到着します。泊行きをあきらめたため、『能登』の車内に少々未練が残りましたが、糸魚川駅のホームに下り立つと、なつかしさで胸が一杯になりました。9年ぶりです。駅の南側の町並みと、その上にせまる山並みも以前のままですし、なつかしい機関庫も健在です。(※)
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 まだ朝の5時前なので、町は一日の活動を始めてはいませんが、久しぶりの糸魚川だから、一刻も早く改札を出て、なじみの深い市街地を歩いてみたい。ふつうなら、それをすぐ行動に移し、この旅の譜も終わりとなるところです。
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 しかし私には、まだ大きな関心ごとが残っています。直江津で、本来はそこに停車しないはずなのに待避線側に入って『能登』を先行させたあの『北陸』が、その後どういう動きをとっているのか。この旅は『能登』や『北陸』との別れの旅ですから、それを見届けないまま、ホームを去るわけにはいきません。ところで私が乗る予定の6時4分発の大糸線南小谷行は、これも今回のダイヤ改正で姿を消す、最後に3輌だけ残ったキハ52形気動車であり、どうやらそちらを目当てにした鉄道ファンも、改札口に隣接した待合室には、かなり集まっているようです。あまりに『北陸』が遅れて来たら、どちらを優先しよう。そんな心配がふと頭をかすめた頃、駅のアナウンスが、ほどなく『北陸』が到着することを告げました。

 これでひと安心、と胸をなでおろすとともに、EF81に牽引されてホームに入って来た『北陸』の姿を目にするや、抑えがたい懐旧と親しみの情が、私の全身を縛しました。ああ、よくがんばったね、という言葉が、喉元までこみ上げます。『北陸』のヘッドマークにも雪がこびりつき、何かの不調を乗り越えて来たのであろうEF81や14系寝台客車の奮闘の様子からは、まさに「老兵」の形容がふさわしく感じられるのです。実際、列車は雪の上越線を越え、魚沼から中越の深い雪と霧をかき分け、日本海の寒風にさらされて、ここまで来たのです。まして『能登』は季節列車としての存続が決まりましたが(2012年3月以降は運転なし)、『北陸』は完全に、あとひと月のラストラン。糸魚川でほんの数人の乗客を下ろし、発車してゆく『北陸』の姿を、カメラを構えてこそいましたが、私は最敬礼する思いで見送りました。赤い尾灯と『北陸』のテールマークが、糸魚川駅西方のカーブを曲がって、視界から消え去るまで。
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 さて、これでようやく、町を歩ける。そう思って階段を上り、下り線側の改札口へ向かいつつ時計を見ると、もう5時を過ぎています。お、これはひょっとしたら。上り線のホーム(長岡からの信越・北陸線は金沢・大阪方面が上りで、新潟方面が下り)から見た通り、十数人の人が待つ待合室の片隅で時刻表を確認すると、はじめ乗るはずだった『きたぐに』は、5時28分着となっています。こうなったら、『きたぐに』もここ糸魚川で見送って、写真の1枚も撮るべきだ。そう考えると、決断、計画はあっという間でした。すぐ改札で、糸魚川‐泊間往復分の乗車券と、『きたぐに』の急行券の払い戻しをしてもらいます。そして一度改札を出て、糸魚川の町を、9年ぶりに歩きました。

 歩くと言っても、だいたいの様子はわかっており、店の一軒とて開いているわけではありませんから、駅前のS書店さん、「ゑびや」さん、H宝石店さんの前を経て、国道8号線の向こうに広がる日本海を、見に行くだけです。それで戻れば、『きたぐに』の到着にも十分間に合う。その計算が、待合室で時刻表を見た時に、すぐ成り立ったのでした。
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 2月中旬、春まだ遠い季節の早暁の日本海は、やはり暗く、きびしい表情でした。海岸沿いの国道8号は、歩行者の横断用にはほとんどの場所で地下道が設けられており、そこをくぐれば海岸沿いに出られます。しかし今朝は、引き返す時間の都合、またもし凍結などあった時、万一足をすべらせでもしたら、帰京できなくなり、受験が終わっていない繁忙期の塾に穴を開けるわけに行かないことへの用心から、国道越しに遠望するまでのこととしました。かつていく度もながめた通り、風吹きすさぶ日本海は、容易に人を寄せつけない険しさに満ちていますが、汽車に乗り通しの旅ながら、間違いなく新潟にやって来たのだ、という一種の安堵をも、私に与えてくれました。
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 まだ覚めやらぬ糸魚川の町へきびすを返し、ふたたび駅にもどると、『きたぐに』の到着時刻まではあと数分でした。乗るわけではありませんから、もっとも富山寄りのホームの端まで行って、待ち受けます。ここでまたわが意を得たり、と合点したのは、やはり『きたぐに』もわずかに遅れているものの、その遅れが3、4分程度のものだったことです。上野から私が乗って来た『能登』は、5、6分遅れていました。泊で折り返し乗車をする際、定刻では7分での乗り換えです。先ほどの行きの『能登』が糸魚川から遅れなく行ったとしても、『きたぐに』が定刻なら、乗り換え時間は1、2分。泊も海に近い北陸の駅ですから、階段などが雪で歩きにくい可能性があることは、容易に想像できます。『きたぐに』がもし糸魚川へ10分も遅れて来たなら、「賭けをして、泊まで行ってみればよかった」とも思いたくなるでしょうが、糸魚川で3、4分の遅れでは、一番長くても5分前後の乗り換え時間しかなかったわけで、勝手を知らない泊の駅では、「賭け」が「無謀な冒険」になった確率が、非常に高いと考えられます。まして、『能登』と『きたぐに』が、実際にはどのように走ったのか、わからないのです。昨夜上野を出てから一晩のこもごもが、胸中によみがえります。そして、かつての「電車特急」583系電車の新潟行き急行『きたぐに』の発車を見届けると、つまるところ「夜行列車との別れの旅」であった私の旅の譜も、完結となりました。
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 旅と鉄道は、私にあっては切っても切り離せないものです。『能登』、『北陸』、そして『きたぐに』(2012年3月より臨時列車化)との別れの旅は、長い間多くの列車でほうぼうへ旅をさせてくれた、「寝台列車」「夜行列車」との、永訣の旅だったのかも知れません。それはまた、「汽車旅」というものが遠くなる、かなしい予感をはらんでいるようにも思われます。もちろんどのような変遷を見ようとも、こころに「旅」がある限り、「汽車旅」もまた、不滅のものではあるのですが。『能登』の旅はこれにて完結と致しますが、この「旅の譜」は、舞台を移していつまでも、鉄路とともにある旅のこころをつづって行きたいと思います。

 
※この糸魚川駅名物だった機関庫(車庫)も、この時からほどなくして解体されました。今は新設された南口(アルプス口)と新幹線駅が一体となった新駅の施設が、機関庫(車庫)のあった在来線の南側を、占めていることでしょう。
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旅と鉄道の譜『さらば急行能登』I<完結篇・前>

2014年11月15日

 かつて東京から北陸への比較的短い距離ながら、寝台車を含む客車列車の編成だったこともある急行『能登』との別れの旅のことを書きはじめてから、四年という時間が経過してしまいました。けれどもそろそろ、この旅の譜も終わりとしなければなりません。私自身がこの旅で実際に急行『能登』に乗ることとなった間接的な契機であり、『能登』および寝台特急『北陸』廃止の引き金であった北陸新幹線金沢開業が、いよいよ来春、現実のものとなるからです。

 この旅の譜は、第8回で勾配用の機関車である「EF64」のこと、第9回でブルートレイン「20系」客車のことなどに、すこし紙幅を割きました。今回、『能登』が長岡に到着したあとのところから話を進めたいと思いますが、さかのぼってお読み下さる方々には、第7回より読み返していただけますと、つながりをお読みとりいただけるかと思います。

 2月の雪の夜、長岡で運転停車によって、上越線から信越線直江津方面へ折り返しの発車をした急行『能登』は、長岡操車場の南側を、今までとは進行方向を逆にして快走します。宮内駅の手前で停車してから、幾度も漸進しては停車していた長岡着までの時間が嘘のようです。

 ほどなく、先刻オーバークロスする上越下り線から見下ろしていた、羽根布団のように雪が積もった宮内駅の東寄りを、通過します。短く感じた8輌編成の「ブルートレイン」の姿が、思い出されました。宮内を通過してしばらくすると、信濃川を渡り、昭和59年まで西小千谷への魚沼線を分岐していた来迎寺(らいこうじ)駅にさしかかります。そう言えば一度、ここの駅前の床屋さんで散髪をしてもらった・・・。すっかり忘れていたことが、深夜の雪景色の中で、あざやかによみがえって来ました。新潟という土地は、たしかに私の人生の一部を占めているのです。

 かつては越路(こしじ)町の中心地だった来迎寺を過ぎると、線路は山間を縫って行きます。信越本線から見れば海側を並行している越後線も、この辺りは内陸部を走っており、その間に位置する北陸自動車道でも1500メートル級のトンネルがある山間部で、雪も多いです。柏崎の一つ手前の茨目駅近くで北陸道をアンダークロスすると、ほどなく海の気配が近づいて、柏崎駅に到着します。ただこの夜行急行『能登』は停車せず、そのままのスピードで通過です。よく泊ったビジネスホテルや、駅前の飲み屋のなつかしい女将さんの顔など思ううち、市街を走りぬけました。

 さて、私の乗っている席は、長岡から山側になり、進行方向は背中側と、すべてが逆向きになっています。夜の日本海を思う存分眺めてみたいという思いもありましたが、途中どちら側の車窓となっても、それぞれに興味が深いので、あえて指定をしなかったことは、上越線の過程で述べた通りです。柏崎を過ぎて二つ目の駅が米山で、越後の民謡などに歌われている米山(標高993メートル)が、海岸近くに美しい姿を見せています。さすがに二月のこの時期ゆえ、山頂から三、四割ほどが、白く雪をかぶっており、かつて見なれた姿とはいえひときわ荘厳に感じられます。

 その姿を目に留め、ずっと眺めている間、私はやはり海側、山側を指定しなかったことの僥倖を、わが身に感じました。すなわち、大好きな米山の姿を、予測しえなかった山側から、かなり長いこと、遠望することができたのです。東海道線で富士山が、山側でなく海側の車窓から、ときどきのぞまれる、あの感覚です。二月の深更、視界から消え去るまで長く、一人旅の無聊をなぐさめてくれた米山の姿は、生涯忘れ得ぬものになるかと思われました。

 進行方向を向いていないため、視覚から感じとれる情報は、前を見ている時にくらべ、とうぜん後手後手になります。地形や背景から、そろそろかな、と思った頃、犀潟駅の手前で、右手から北越急行(ほくほく線)の単線の高架線が近づいて、列車はすぐにアンダークロスしました。そのまま犀潟駅を通過、さらに黒井駅も通過すると、ほどなく直江津です。

 これもまたなじみ深い関川の流れを渡って到着した直江津駅では、意外な光景が待っていました。『能登』は島式ホームの5番線に入ってゆき、そこは予定のことと思われましたが、気がつくと反対側の、待避線である6番線に、青い寝台列車の姿があるのです。これはどうしたことだろう。しかし直江津駅は客扱いをする「停車」ですが(『北陸』はダイヤ上では通過)、深夜のことですから案内放送はなく、向かい側に停まっている列車の素性はわかりません。やがて私の乗っている『能登』が発車し、追い越しざまに先頭の機関車を注視すると、信越・北陸線担当の赤いEF81型電気機関車の前頭部には、出発前に上野で見た、『北陸』のヘッドマークがかがやいていたのです。上野の時とは機関車が異なりますが、その前頭部にも屋根の上にも、かなりの量の雪がついています。

 旅における偶然とは、ほんとうにふしぎなものです。直江津駅を発車すると、やがて右手から、今度は妙高からのスイッチバックを含む長い坂を下りて来た信越本線の単線の線路が、平面交差で合流します(『能登』や『北陸』は、直江津駅をはさんで信越本線から北陸本線へ「直進」)。ここで改めて私の脳裏によみがえったのは、十数年前、越後湯沢からほくほく線経由の『はくたか』に乗って高岡へ向かう時、この(進行方向向きで見れば)左手からの信越線を、上野から碓氷峠を経て長野を通り、黒姫、妙高を越えて来た特急『白山』(もちろん白山色の489系)と、すれ違ったシーンです。あの時は、ボンネットの白山色に予想外の邂逅の衝撃を受け、すぐに時刻表で、直江津を10分後に発車する『白山』だと確認して、「しまった。この手もあったか(『白山』で高岡へ行くこと)」と思ったものです。もっとも当時はほくほく線『はくたか』がデビューして1年ほどの頃で、仕事で回っている新潟の、六日町から十日町、そして犀潟へ抜けて行く新線を使うことに、何のうたがいもなかったのですが。

 そして今回の『能登』の旅では、後発の急行が先行している特急を追い越すという、めったに体験することのない不思議な出来事が、待っていました。「不思議」と言いましたが、「霧のための遅れ」とは聞いていたものの、あの宮内から長岡にかけての足踏みは、なるほど同じ線路、同じ(長岡の)ホームを利用する『北陸』に遅れが出ていたのだとすれば、致し方のないことだったと、逆に合点がいきます。また、それゆえに普通なら3本の寝台特急とすれ違うはずのところを4本と行き会った、その不思議にも、いわく言い難いめぐりあわせのようなものを、感じてしまいます。もはや述べるまでもないと思いますが、宮内の駅で最後に見た「4本目の寝台特急」は、この『北陸』だったに違いありません。
つづく

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旅と鉄道の譜『さらば急行能登』H〜ブルートレイン哀歌

2014年02月09日

 2月の中旬、小雪の舞う夜に越えてきた上越線と、これから向かう信越線、北陸線、また三十代半ばの3年間を親しんだ新潟のことを思ううち、すこし鉄道好きの専門領域の方へ、話がそれてしまったようです。

 お詫びの先触れを口上しながら甚だ恐縮ではありますが、実は前々回(第7回)で書いたブルートレインのことについて、読者の方から「要解説」のご指摘を頂戴しましたので、あと少しだけ、そのことをお話ししたいと思います。

 ブルートレインのシンボル「ナハネフ22」については、もちろんご存じの方が多いと思います。ただ、今年51歳になった私とて、この優美な車輌を掉尾とする20系客車の寝台列車、すなわち元祖「ブルートレイン」と言える特急列車に乗車することができたのは、生涯一度きりのことでした(その後『銀河』などでは、もっと経験があります)。

 寝台特急『あさかぜ』として登場したブルートレイン(20系客車)は、『こだま型』151系特急車輌(『能登』の489系ボンネット型車輛の元祖で、東京−大阪間を6時間30分で結びました。新幹線登場前の「夢の特急型電車」です。これも語れば長いのですが・・・)と並ぶ花形車輌。まさに新時代を告げるデザインと設備で、「走るホテル」ともてはやされた、昭和30年代(1955年〜64年)の、夢の列車だったのです。

 中でも「ナハネフ22」は、丸みを帯びた車端部に(一説には“なすび型”とも)、2枚のパノラミックウィンドウの曲面が美しいフォルムの仕上げをしており、「あの列車に乗りたい」と、強く思わせるものがありました。豪華寝台特急カシオペアの最後尾車輌の「スハネフ21」(E26系)の登場時に、この「ナハネフ22」のフォルムを踏襲したという説もあったように思うのですが(すみません、本稿では未確認です)、たしかにそんな感じがします。ただしカシオペアと違い、車端部は客室ではありません。 

 ブルートレインは14系(オハネ14など)、24系(オハネ24など)、24系25型(スハネ25など)と変遷して来て、「オハネ」「スハネ」という車輛形式が主流となったため、「ナハネフ」の「ナ」というカタカナが何を意味するかをご存じない、もしくは知識があっても実際には見たことがないという方も、多いのではないのでしょうか(「ナ」「オ」「ス」等の記号については、文末で解説します)。

 なぜ「ナハフ」「ナハネ」、そして「ナハネフ」等の客車が消えてしまったかと言うと、まず、ブルートレイン元祖の20系は、その前の世代にあたる10系客車の時から「軽量化」が進められた時代の客車だったということが挙げられます。10系より前のいわゆる「旧型客車」は、とにかく重かったのです(形式は、やはり「オハ」「スハ」などです)。高速化やサービス向上、そして効率化を図る意味で、軽量化がすすめられたのでしょう。

 20系の次に作られた12系(座席)客車からは、急行用の座席車でもはじめから冷房が必要とされた上、自動ドアも採用されるなど、設備は当初から増える方向にありました。さらに、20系では「カニ22」に代表された電源車(冷暖房などのサービス電源供給車)の機能を全車輌に分散させたため、重くなるのは当然のことだったのです。

 前々回(第7回)の「ナハネフ22」の記述をお読みになって、「ナハネフ」など聞いたこともない方もあるのでは?と、本稿を読みこんで下さる読者の方が案じて下さいましたので、すこし紙幅を割いて、かつてのブルートレインの「顔」であった花形車輌のことを、お話しさせていただきました。

 華やかなデビューを飾って「走るホテル」と称賛され、栄光のブルートレインともてはやされた20系も、時代が下り、昭和40年代も半ばとなると、53センチというその寝台幅が、「きゅうくつ」なものと感じられるようになりました、そして70センチ幅の寝台を持つ14系客車が登場し、次いで24系、さらに「3段式」を「2段式」に改めた24系25型が現れて、ブルートレインはB寝台で「2段式 70センチ幅」の寝台がエース級と位置づけられるようになったのです。時刻表の、こんなマークをご記憶でしょうか。

「★」 「★★」 「★★★」
 

 左から、客車3段式、電車3段式、客車2段式という、寝台設備をあらわすマークです。24系25型が、「★★★」の「2段式 70センチ幅」のエースだったのです(寝台料金も、異なりました)。

 この連載は、寝台特急『北陸』と、一時は寝台車も連結した客車列車だった急行『能登』との別れを惜しんで、実際に『能登』に乗車した4年前の冬の旅を、かなり長い時間をいただきながらつづって来たものです。途中で書いた最後の(豪華列車でない、通常の)ブルートレイン『あけぼの』も、あとひと月あまりで定期運転が終了してしまいます。

 さらに、「豪華列車」の「はしり」であり、「青い車体の寝台列車」=「ブルートレイン」最後のランナーとなる『北斗星』も、その引退が示唆されており、そればかりか、大阪からの『トワイライトエクスプレス』、新製E26系を投入して運行をはじめた『カシオペア』までもが、その先行きを案じられる時代となってしまいました。

 すこし前のことですが、朝6時発の新幹線で神戸へ出向いたことがあり、検札のため入室して来た女性パーサーの「おはようございます」という挨拶がとてもすがすがしく、なつかしかったので、感じのよいその方に、「昔の寝台列車の朝のアナウンスを思い出しましたよ」と話しかけたところ、その方は、「そうだったんですか」と、感心してくれたようでした。鉄道の旅を味わい深いものにしてくれる職員の方々とのふれあいだけは、ずっと変わらないものであって欲しい、そんなことを、いま改めて思いました。

 今回は「ブルートレイン」考、に終始して、失礼させていただきます。そして次回、この長い旅を完結に向かわせたいと思います。やはり『能登』との別れを書きつづるには、雪の恵みが大きな力となっているようです。

★ご参考 国鉄の車輌形式のうち、「ナ」「オ」「ス」は重量を示します。

コ 重量 22.5t未満
ホ 重量22.5t以上 27.5t未満
ナ 重量27.5t以上 32.5t未満
オ 重量32.5t以上 37.5t未満
ス 重量37.5t以上 42.5t未満
マ 重量42.5t以上 47.5t未満
カ 重量47.5t以上        ※ウィキペディアより引用

 用途の一覧は省きますが、「ナハネフ」の「ハ」は2等車、「ネ」は寝台車、「フ」は緩急車(車掌が乗務する車輌で、「緩急」は手動ブレーキを有する意)を示します。

posted by 小田原漂情 at 23:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 漂情旅日記篇

旅と鉄道の譜『さらば急行能登』G

2013年02月16日

 深夜の雪景色の中、別れのさびしさを訴えているかのような短い編成の寝台列車たちを見送ると、こなたボンネット型489系特急型車輌の急行『能登』は軽快に速度を上げ、いったん宮内駅を後にしました。
 そして、上り線を見やることのできない広大な長岡操車場を通り過ぎると、駅ビル「セゾン」に抱かれるかのように錯覚する長岡駅へと到着します。新幹線だと高架ですから、明らかな長岡停車のための減速を目と体で感じるころ、北陸自動車道から長岡市街への入り口のような長生橋が見えるのですが、地上の在来線からは見えません。信濃川が近いな、という雰囲気だけを味わっての、長岡入りです。
 到着すると、新潟への進行方向右側には、大型スーパーとホテルニューオータニ長岡が見えます。3年間の新潟出張時、新潟と長岡に泊るのがほとんどでしたが、長岡での末期はこのニューオータニをよく利用しました(1990年代半ば、朝食付きで8000円台だったと思います)。出張の多くは冬の期間でしたから、雪の季節ならではの長岡の街の風情が、やはり懐かしく感じられます。

 さて、前回の註(※2)で青森行き寝台特急『あけぼの』を牽引する機関車が、上越線内(長岡まで)ではEF64に代えられたこと、その理由としてEF81では「空転」が多かったことなどをお伝えしました。このことについて、少し紙幅を割いて、お話ししたいと思います。
 鉄道の基本的な仕組みは、「粘着運転」です。「粘着」とは、粘着テープのそれではなく、列車の重量をささえる車輪面(レールに接する面)とレールとが常に密着していて、摩擦力が生じていることです。そして「空転」とは、文字通り車輪が空回りして、粘着力が失われた状態のことを言います。
 この空転は、「あっても良い」ことではありませんが、時に生じることのあり得るものです。ごく短時間の、一時的なものなら実害が生じることはないでしょうが、長時間、空転の状態が続くのはタブーです。通常、平行な左右の車輪をつないだ車軸が2本ひと組でひとつの台車になっており、重量もこの単位で支えますから、勾配区間では、片方の車軸に重量がかかり、片方は逆に負荷が軽くなって(軸重移動)、空転が起こりやすくなるわけです。ことに急勾配の路線においては、粘着力の失われた状態が続くと、大事故につながります。

 1997年9月に廃止となった信越本線横川‐軽井沢間、国鉄・JRでの最急勾配66.7‰(パーミル)で知られた旧「横軽」区間では、その急勾配のために列車が峠の下方へ逆走、または逸走(下り勾配で制御できなくなり暴走)してしまう事故が、複数回起きています。
 1963年(昭和38年、私が生まれた年です)に、開通時からのアプト式(車軸の歯車=ピニオンを、2本のレールの間に敷いたもう一本の「歯状軌(ラックレール)」のラック=歯車を受ける“ギザギザ”に噛み合わせて上り下りするシステム)を粘着運転に切り替えた際、「横軽」には2種類の専用電気機関車が、新製投入されました。
 普通の「EF(Fは動輪6軸を、Eは電気機関車を表します)」型機関車は、2軸台車×3で6軸としています。しかし碓氷新線用の新型機EF62(横軽をはさんだ信越線全通用本務機)では、その特別な目的の(碓氷峠をEF63と協調して上り下りするが、前後の平坦線では高速度で走る)ため、当時では珍しい3軸台車×2で6軸とする方式を、採用しました。
 また、峠のシェルパと呼ばれて愛されたEF63(横軽=碓氷峠専用補機)は、特別に重い自重、軸重に加え、重量バランスや電気回路の工夫、さらに台車の(こちらは2軸です)逆ハリンク、過速度検知装置、電磁吸着ブレーキなど、考えられる限りの「安全に峠を上り、また下る(押しとどめる)」ための装備を持っていました(ほかにも、「峠」では列車側で空気ブレーキをパンクさせるなど、いろいろあるのですが、EF63の特殊技術も含めて、このへんにしておきます)。

 急勾配線区の切り札ともいうべき抑速発電ブレーキについてだけ、この旅日記に(つまりEF64に)関係があるので、いま少し紙幅を費やして、ごく簡単に説明します。
 質量のある物体(ここでは機関車、列車)が下向きに移動すると、エネルギーが発生します。機関車の駆動力は、電気でモーターを回し、その力を変換して車軸→車輪へ伝えているわけですが、下るときに発生したエネルギーは、回路をつなぎかえることで、モーターを発電機として回すパワーにすることができます。言ってみれば、電気→力を、力→電気と戻してやるわけですね。
 この電気を、さらに架線まで戻して電力として利用するのが、「回生ブレーキ」というものですが、「発電ブレーキ」では、大きすぎるこのエネルギーからの電気を、抵抗器で熱に変え、空気中に逃がします。抑速発電ブレーキの仕組み、放熱のために風を送るブロワーは、EF63だけの特別なものではありませんが、とりわけ碓氷峠を下るEF63では、ものすごい高熱のためにブロワーの音が山に響き、また機関車の屋根の上には、陽炎がゆらめき立っていたと言われています。

 さて、そろそろ「あけぼの」牽引のEF64の話に戻りましょう。この機関車は、もともとはいま山形新幹線「つばさ」がぐんぐんかけ上っている奥羽本線(山形新幹線)福島−米沢間の「板谷峠」のために開発されました。同じく厳しい山岳路線である中央本線用でもあります。また、板谷峠でその前に活躍していたEF16という機関車は、板谷峠のために作られたあと、上越線用にも作られましたし(いずれもEF15からの改造)、上越線開業時に新製されたED16は、同時に中央本線の甲府までの電化のために用いられました。
 このように、本州の脊梁(せきりょう)部をつらぬくこれらの路線、上越線、奥羽本線、中央本線は、みなどこかに共通点を持つ、代表的な山岳路線だと言えるのです。
 そして、EF64は、碓氷峠専用の設備を除いて、EF62、63の持っていた勾配用の装備を、みな惜しみなくつぎこんだ、勾配線区用のスペシャリストでありました。さらに1000番台は、豪雪地帯の上越線用に特別に作られた機関車です。

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 この夜(2010年2月)、『あけぼの』を牽引していたのは、EF64の0番台でした。『北陸』は、EF64の1000番台です。EF81にも空転防止の機構は当然備えられているのですが、そもそも日本海縦貫線(北陸本線・羽越本線等)が主たる目的として作られた機関車であり、専用機(ED16やEF64の1000番台)が作られたほどの山の難所である上越線では、空転が多かったというのも止むを得ないところでしょうか。
 そしてこの夜からほぼ1ヶ月後の3月12日に『北陸』が廃止になると、『あけぼの』の牽引機は1000番台となり、現在に至っています。今や『北斗星』と2本きりになってしまった「最後のブルートレイン」の『あけぼの』に、ぜひ長生きをして欲しいものです。

   ◇参考文献等 『碓氷峠 ロクサン惜別の旋律』弘済出版社 1997年
             『ノスタルジックトレインNo.3』芸文社 2009年 
             ウィキペディア   
           今回、この掲載文のために確認をとったものは以上です。碓氷峠に関する小説2作
           の執筆にあたっては、ほか多数の文献、資料等から、多くの示唆、ご教示をいただ
           いております。
   
    ※碓氷峠の「物語」については、上記『ノスタルジックトレインNo.3』掲載の
    拙作『小説 鉄の軋み』、『小説 碓氷峠』(画文堂 2000年)にも、くわしく
    書いてあります。ネットで検索していただければ購入できると思いますが、難
    しい場合はメール・電話にて、言問学舎小田原あてにご連絡下さい。

posted by 小田原漂情 at 14:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 漂情旅日記篇

旅と鉄道の譜『さらば急行能登』F

2013年02月03日

 赤い機関車は、交直両用のエースEF81に違いありません。しずかに通り過ぎる金沢・大阪方面行きの寝台特急を見やりながら、しかし私は、何かが足りないような気がしてなりませんでした。
 その寝台列車が行ってしまってから、私はぼんやりと考えつづけました。そう言えば、塩沢あたりで最初に行き違った寝台特急も、小出を過ぎたあたりで行き会った二本目も、何だか短かったような気がする。『北斗星』や『日本海』が一往復になり(※1、来月には『北陸』も廃止されるご時世だから、編成が短くなるのも仕方ないか・・・。
 そう思いつつ、今通り過ぎた列車の残像をまなうらに遊ばせていると、もう一つ、疑問が浮かび上がってきました。先ほど上越線で二本すれ違った寝台特急は、二本とも機関車が青色だったのです。何気なく、最初の一本を『あけぼの』だろうかな、と思っていたのですが、いま実際に赤いEF81を見てみると、今日赤い機関車を見たのは初めてだ、さっきは確かに青だった、と思われてならないのです。(※2
 狐につままれたような思いでいると、列車(『能登』)は少しずつ前進して、宮内駅の5番ホームに入っています。そしてほどなく、先ほど寝台特急が通過して行った信越下り線に、もう一本、同じ装いの寝台列車が入って来ました。
 「あ、あれはいったい何だろう。」
 時刻表で確認こそしていないものの、無意識に、すれ違う寝台列車は三本のはずだという感覚がありました。上りの『あけぼの』『北陸』、そして大阪行き上りの『日本海』。もちろん出発前にはあれこれと時刻表を眺め返して、いろいろな可能性(富山か金沢まで行ってしまう、など)を考えたのですから、大きな勘違いはないはずです。
 しかし現実に今、目の前で、雪の中の宮内駅を、北陸線上りの寝台特急が通過して行くのです。(※3 とまどいながらも、私は急いで編成の車輛数を数えました。
 「1、2、3、4・・・」
 最後尾まで数えてみると、それは8輌の編成でした。思い返すと、ついさっきこの宮内で見送った先行列車も、同じくらいの長さだったように感じられます。上越線内のすれ違いは、隣り合わせの線路であっという間にすれ違うため、正確なカウントは不可能ですが、やはり今思えば、だいたいこれぐらいの長さだったのでしょう。 
「ふうん・・・。」
 ここで、一つ目の疑念が少し具体的な形になって来ました。8輌の列車と言えば、長くはないけれども決して「短すぎる」編成ではありません。それでも私の気持ちの中に、「おかしい、どうにも短い」という不信感が広がり、なかなか消えて行かないのです。
 ほどなく列車が動き出し、長岡の操車場を通り過ぎて行く時に、私ははっ、とひらめきました。そうだ、今夜行き会ったあの寝台特急たちは、今や風前のともしびのような「ブルートレイン」だ。だから短いと感じるのだ。
 「ブルートレイン」というものは、電源車と食堂車を含めると、13輌、14輌という長い編成で、堂々と他を圧してゆく存在だ。最後尾には、かつては誰もがあこがれた「ナハネフ22」の姿があった。あの長大編成の雄姿を無意識に期待してしまう自分にとって、8輌編成が短く感じられるのは当然のことかも知れない・・・。
 そしてあの羽根ぶとんのような雪の中を行きすぎるさいぜんの寝台列車の姿を思い浮かべると、その時は「短い」とだけ感じた同じ列車が、おとぎ話の世界をゆく「汽車」のようにも感じられるのでした。これがもし、雪景色の中でなかったとしたら、おそらくそんなふうには思わなかったことでしょう。やがて二つ目の疑念(※2 についても、解決のいとぐちらしきものが見つかりました。

※1この時から2年後となる昨年(2012年=平成24年)3月、『日本海』は一往復の定期運用もとりやめとなりました。かつて名古屋に住んでいた頃、名古屋発の北陸特急『しらさぎ』で敦賀まで行き、『日本海1号』に乗り換えて秋田まで旅したことがありました。さびしい限りです。

※2長く『あけぼの』は、上野から青森まで通しでEF81牽引だったため、私はそのことを思ったのです。あとで調べてみると、この1年前、2009年3月のダイヤ改正時から、EF81の牽引区間は長岡−青森となり、上野−長岡間はEF64牽引となっていました。このように変更された理由は、EF81が上越線で空転することが多かったことと、上越線の担当乗務員が扱いにくかったためだそうです(参照:ウィキペディア)。やはり特別な山岳路線である上越線ならではの措置だな、と、感慨深いものがありました。

※3あとでわかったことですが、最後に行き会った「4本目の寝台特急」は、上野を30分早く発車、先行していた下りの『北陸』でした。遅れがなければ、『能登』が宮内へさしかかる前に上り(富山・大阪)方面へ走り去っているか、長岡操車場の遠く離れた上下線で、姿を見ずにすれ違っていることでしょう。なぜここですれ違ったのか、その正確な理由は「霧による7分の遅れ」以外に知る由もないのですが、このあとまた、この『北陸』が登場しますので、謎解きはほどほどにしておきます。ひきつづきお読み下さい。
posted by 小田原漂情 at 00:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 漂情旅日記篇

旅と鉄道の譜『さらば急行能登』E

2013年01月17日

 指定券を求めるにあたって、進行方向右側、左側の別には、こだわりませんでした。どちら側にも思い出があり、偶然性を優先することで、より多くの可能性を持つ『能登』との別れの時を得たいと思ったためです。
 もちろん、たとえば羽越本線で「笹川流れ」を見たい時などは、下りなら左側と指定します。今はどこの駅でも快く対応してくれるので、遠慮のために指定しなかったわけではありません。
 ただ結果として、右側に座ることとなったので、ひとつ楽しみができました。すれ違う寝台特急を、見落とすことなくチェックできることです(長岡からは逆になりますが、たぶん長岡前後でほとんどすれ違うことになりそうです)。
 深夜のことで、越後湯沢以降、すべての通過駅の所在(駅名まで)を確認することはできません。町に見覚えのある六日町がまだだから、ここは塩沢かな、大沢かな、などと、思いをめぐらせていた時でした。
 短い警笛と共に、ヘッドライトを輝かせた電気機関車とすれ違います。つづいて青い客車の車体がこちらの車窓を占め、私は心の中でつぶやきました。「今のは『あけぼの』かな。朝になったらよく調べてみよう。」
 取材をして記事を書くのが目的なら、時刻表をすぐチェックして、「何時何分、○○駅付近にて『△△』とすれ違い」とノートに記すところでしょう。けれども今日はビールこそ少な目ながら、『能登』や『北陸』との別れを惜しむ旅ですから、時刻表も鞄の中にしまったままです。ただ雪の深夜、最初に行き会った寝台特急の印象は、やはり鮮烈なものでした。
 新幹線との接続駅は、手前から高架線が接近するので、深夜といえどもわかりやすいです。近くのホテルに何度か泊ったこともあるため、浦佐駅はすぐわかりました。ところが小出や越後川口は、意外とわかりにくいのです。単線の分岐・合流では、夜間である上に積雪も視界をさえぎるため、なかなか判断できません。それでも右側に只見線を見送る小出駅、飯山線が左後方から入ってきたらしい越後川口駅と、何とか見当をつけることはできました。汽車で通り過ぎたことしかない路線だったら、わからなかったかも知れません。小出は町に、越後川口は駅のたたずまいに、それぞれ思い当たるものがあったのです。

 ほどなく小千谷、そして越後滝谷の駅を過ぎると、上越線と信越線の広大な合流・分岐駅である宮内駅が近づいてきます。ここではふしぎなひとときを過ごすことになりました。
 ご存知の方が多いと思いますが、宮内と長岡の間は、上越線と信越線を行き来するすべての列車が往復します。複線同士が宮内の立体交差で合流して、ひと組の(信越線の)複線を、一度長岡まで行って、また宮内へ戻ってから、列車ごとの進路に分かれて行くのです。特急・急行は、宮内駅はすべて通過します。
 ところでこの『能登』ですが、上野発の金沢行きですから、当然長岡で折り返します。けれども運転停車で乗降はできず、時刻表にも長岡の時刻は載っていません。したがって、いま宮内にさしかかって、定刻通り来ているのかどうか、確かめるすべがないのです。
 と思う間もなく、上越下り線が信越線をオーバークロスする、すなわち右下方に宮内駅を見下ろすあたりで、みるみる列車の速度が下がり、やがて完全に停止してしまいました。雪はほとんど降っていませんが、視界が悪いようです。
 私は時計を見つめました。『能登』には泊まで乗って行って、折り返し急行『きたぐに』で糸魚川へ戻るのが、今日の旅程です。『きたぐに』も遅れるかも知れないが、朝一番で大糸線のキハ52(これも間もなくさよならの車輛です)に乗るのがもうひとつの目的だから、そこを外さないためには、泊での7分の折り返しのためには、こちらの遅れは3分が限界と見ておかなければなりまん。
しかし停まってしまった列車は、信号にあわせて少し動きはするものの、すぐまた停まり、なかなか通常運転に戻る見込みはなさそうです。これは早めに見切りをつけるしかないかな、と思いながら、何気なく宮内駅のホームの方へ目をやると、羽根ぶとんのように降り積もった雪の中を、赤い機関車に牽かれ、みじかい寝台列車がやって来たのです。

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                                         つづく
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旅と鉄道の譜『さらば急行能登』D

2012年03月25日

 上越国境(上州=群馬県と越後=新潟県)を、鉄道の在来線では清水へ向かう清水街道沿いのトンネル(在来線上越線の下りが新清水トンネル、上り線が最初にできた清水トンネル)を、国道17号線は三国峠を、また上越新幹線と関越自動車道は大清水トンネル、関越トンネルでその中ほどの谷川岳西方を、それぞれ超えて(物理的にはみな潜り抜けて)行きます。
 若いころ、水上あたりからこの上越国境越えの風情にいたく心を動かされたゆかりがあったものか、新潟通いの三年間が私の三十代前半の日を彩りました。
 鉄道、特にこの上越線で新潟県に入る道すじは、川端康成の『雪国』の描写を措いて語ることができませんね。みなさんよくご存じのことでしょう。
 ・・・国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。夜の底が白くなった。・・・
 上越国境、清水トンネル(あるいは関越トンネル)を越えて雪の越後(新潟県)に入る時、その変化を、これほどに言い得た描写はないかと思います。雪の季節、どのように上越国境を越えた時でも、その時々の実感はまさにこの通りのものでした(ただし、「現在」を描く視点を重視する立場を考慮するなら、この清水トンネルでの国境越えは、まさに清水トンネルの開通から間もない頃であったために鮮烈なものだったのであり、それ以前の三国峠越えでは感得されることのない、新しい感覚でもあったのでしょう)。

 この区間は、上下線がそれぞれにその時点での最善の方法で、峠をクリアしています。従って、上下が分かれていることはもちろん、片やループ線(松川ループ)、こなた新清水トンネルに新松川トンネルといったかたちで、CGなどで立体的線形を図示したら、さぞや興味深い映像が見られるだろうと思います。関越道でちらちらと線路の様子をうかがいながら走った時も、わくわくする気持ちをおさえることができませんでした。

 夜の底が白くなる。まさにその通りの感覚です。トンネルを出ると土樽ですが、正直なところこの駅は、通過する列車よりは関越道からの方が、そのたたずまいがよくわかります。その次が越後中里。ここは中線式の待避線がある旧急行停車駅で、はじめて『よねやま』に乗った時も、停車した覚えがあります。

 岩原(いわっぱら)スキー場前駅を過ぎ、越後湯沢駅。『能登』ではこの越後湯沢を含め、高崎からあとの駅はすべて通過です。はじめてこの越後湯沢に来たのは、昭和57年(1982年)2月、大学1年生の時でした。
 上越新幹線は、すでに大半の工事を終えており、その年の11月に開業しました(大宮駅発着の「暫定開業」。ちなみにその「暫定」も、東北新幹線が同年6月の先行開業です)。だからこの時、新幹線の設備はもうすべて出来上がっていたのですが、それでも営業列車は在来線の上越線のみでした。
 雪が深く降りつもった深夜の越後湯沢駅を、かつての上越線の花形特急列車『とき』(161系→181系)ともゆかり浅からぬ489系特急型電車で通過する感覚は、往年の在来線での越後入りを思わせるものでした。
 かつて『よねやま』で湯沢を訪れた前の年の夏には、金沢から特急『はくたか』で、おなじ線上を帰京したこともありました。上野−金沢間を、信越線碓氷峠経由が『白山』、上越線長岡・越後湯沢経由が『はくたか』として、分けていた頃です(『はくたか』は季節列車だったように思います)。

 私の経験だけで考えても、あれから三十年にもなろうとしています。残念ながら、『能登』や『北陸』との別れの時が来ているのも、仕方のないことなのかも知れません。

 ※作中の行動・思索は、平成22年2月のものです。
 
 参照『国鉄前線各駅停車E 中央・上信越440駅』(小学館)
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旅と鉄道の譜『さらば急行能登』C

2011年09月11日

※今回から、灯を落とした後の夜行列車の車中記となります(荒川をわたってほどなく、川口市街を見ている頃、消灯となりました)。写真の併載は下車駅の記述に至るまでお待ち下さい。

 急行『能登』との(乗れるわけではありませんが、特急『北陸』とも)お別れの乗車、ということは、この2月という時期を考えれば、それは雪国への旅と同じ意味です。雪国、とりわけ新潟は、むかし(会社員の頃)仕事で3年ほど回っていたことがあり、なじみ深く、愛着の深い土地でもあります。
 また、ずっと以前から、上越線の水上界隈が好きでした。学生時代には、越後湯沢での(石打だったかも)スキー合宿から抜け出して、土合の駅をたずねたこともあります。渋川あたりも好きですし、新前橋にも格別の思い出があり、『能登』でのこの旅程、当初から寝入ってしまうつもりはないのでした。
 結局、熊谷と高崎の間で隣の人がトイレに立ったので、私もトイレに行き、そのあと高崎駅の深夜の様子に目を凝らしながら(碓氷峠〜横川へ行く乗り換えを、何度したことか)、「渋川まで寝ないで頑張ろう」と思い、吾妻線の分岐を左側(反対側)の暗い車窓に見送って、浅い眠りに落ちたのです。

 目を覚ましたのは、沼田の手前でした(つまり、ほとんど寝ていません)。一応、眠っていたのですが、遠くで「えふっ、えふっ」と苦しそうなうめき声がしているように思い、ぼんやり目を開けると、左側の3列先の窓側の男の人が、夢でも見ているらしく、さかんに腕をふりまわしているのでした。隣の通路側の席の人が、迷惑そうによけています。さらに咳きこんでいるのか、うめいているのか、夢の中で聞いた「えふっ、えふっ、えふっ・・・・・・」が繰り返されます。隣の人は本当に迷惑そう。そう言えば、上野で発車を待っている時、窓側の男が通路へ出入りするのを、通路側の人は快く通してあげていたな・・・。それを思い出し、なおのこと通路側の人が気の毒に思えてなりませんでした。周りの席の人も、「えふっ、えふっ」が出るたびに、「うるせえな」などとささやいていますが、当のご本人はまったく気づいていません。もしかするともう二度と乗ることがないかも知れない夜行客車列車の、何とも言いようのない(通路側の人には大変気の毒な)エピソードではありました。

 沼田を過ぎて、たぶん上牧の駅と思われるあたりでは、もう雪がしっかり積もっていました。とはいえ、10センチ前後引き込み線の周りに積もっているのが見受けられるくらい、まだ「豪雪地帯」ではありません。水上の駅まで到達すると、吹雪とは言わないまでも、かなり雪が舞っています。いよいよ峠越えに挑むという、この水上駅のまとっている厳しさが、身に迫ります(何しろ碓氷峠に次いで昭和6年には、清水トンネル開通と同時に電化された歴史を持つ区間です)。
 水上までは、D51牽引の季節列車などで何度か来ているものの、水上以遠に在来線で行くのは久しぶりです。行き過ぎる車窓の景色の一つ一つから目が離せませんが、その中でもやはり、新清水トンネルに入ってすぐの湯檜曽駅、また最深部のイメージがある土合駅は、見逃せません。大学に入り、はじめて電車で越後湯沢に行った時は(たしか急行『よねやま』でした)、「トンネルの中に駅がある」ことを知らずにいたため、湯檜曽はもとより土合駅の存在に、心底驚かされたものでした。
 
 現在の湯檜曽駅は、下り線が新清水トンネルに入ってすぐのところにホームが設けられており、上り線はその外側にホームもろとも並行していますから、さほど特殊な構造の駅には見えません。ただし1967(昭和42)年に大きな移設が行われるまでは、ループ線の上の方に駅があり(上り線が土合方からループで下りはじめる手前、眼下に現湯檜曽駅を見るあたり)、歴史としては十分に興味深いものがあります。余談ですがこの旧湯檜曽駅のたたずまいを確認したのは、新潟からの帰途、ちょうど長野オリンピックで、原田選手が大ジャンプをした日のことでした。
 そして土合駅は、上り線は清水トンネルを出てきた地上部にホームがあり、駅舎等の設備もすべてここに作られています。下り線だけが新清水トンネルの壁面にへばりついたようなホームで、地上部から五百段近い階段を下りてたどりつく構造になっています。そのため昔の時刻表の上越線下りのページには、「土合駅の改札は、下り線に限り発車10分前に打ち切ります」という注意書きが添えられていました。
 そんなことをなつかしく思い返しながら注意深く車窓を眺めていると(座席が右側だったのがありがたい、土合駅下りホームは進行方向右側にあるのです)、真っ暗闇のトンネルの行く手が少しだけ明るくなって、二十何年ぶりに見る駅のホームが姿をあらわしました。ただホームの長さ全部にネットがかけられており、何かの工事中のようです。
 ともあれ上越在来線下りの必見スポットを堪能すると、ふたたびトンネルの真闇が車窓を占めることとなりました。つぎに視野がひらけた時には、そこはもう「雪国」です。

※参照 小学館『国鉄全線各駅停車D中央・上信越440駅』/芸文社『ノスタルジックトレイン3』
posted by 小田原漂情 at 13:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 漂情旅日記篇

漂情みちのく抄 綴.1 『美き酒の思い出』

2011年05月11日

 旅人として、物書きとして、多くの恵みを享受した「東北地方=みちのく」について、いま心の深奥から突き上げる思いはやまず、その深い恩恵についてすこしずつ、語っていきたい。
 自作の短歌作品を引く場合、歌集収載当初のまま、あえて修正・加筆をしない。その方がより真率に、当時の感懐を盛りうると考えるためである。とうぜん技術的には未熟なままのものが含まれるが、この「抄」の主意に免じて、おゆるしいただきたい。

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 まずは青春時代の大きな恩恵「酒」の二首から。

・やはらかくつつみてくれしをみなごの笑みかなし 浅き酔ひのまぼろし
 
 『一ノ蔵』に。親友が鬼首(おにこうべ。旧鳴子町、現大崎市)の出身であり、学生時代は実によく飲んだ。小牛田出身の後輩から、「お土産」としてもらったこともあり、なつかしい。
 蔵元は旧松山町(現大崎市)にあり、東北線(在来線)で小牛田から仙台に向かう時、「ああ、ここがあの一ノ蔵の松山町だ」と感慨にふけった。親しい人間が多い、「地元の酒」のなつかしみに酔ったものである。思い浮かぶ周辺の景観は、一面の水田で、風そよぐ青田の頃から黄金色の秋の実りの季節まで、色鮮やかだ。
 やわらかくつつまれるような酔い心地が、夢幻の世界に誘(いざな)ってくれるようだった。

・友と酌みかたみに酔ひしおもひ出よ浦のかすみもたなびきてをり

 『浦霞』に。蔵元は塩竈市にある。やはり親友とよく飲んだ。じつは宮城県へ最初に旅したのは、大学3年の夏、釣友会の合宿を率いて奥松島の宮戸島へ行ったのがきっかけであり、その先遣下見で6月ごろ、はじめて宮城の地を踏んだのである。
 当時の仙石線ホームは、巨大な仙台駅の構造の北東側に行き止まり式で突っ込んできたような格好になっており、夜行の急行から仙台で下車し、駅の案内を手がかりに仙石線のりばをさがしてゆく時の感覚は、旅の初見の妙味の絶頂だった。
 多賀城をすぎて塩竈の市街に入った時、高架駅の印象が強く残っている。いまウィキペディアで調べると、当時すでに高架化されていた本塩釜駅が、それであるようだ。午前の光の中で、高架駅から見わたした海の眺めは、この上なく開放的だった。
 飲むほどに、酔うほどに、浦にたなびく霞のごとく、幽遠な酔いの霞がこころをなぐさめてくれたものである。
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 みちのくへの思いはずっと深く、けれども本ページを始めるには、大きな逡巡や葛藤があったのだが、両蔵元の震災後の歩みを見るにつけ、ここからなら、自分もエールを送ることができるように思われて、綴の1とさせていただいた次第である。なお掲出作品は、いずれも歌集『予後』中、「愛する酒の歌」より引いた。
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旅と鉄道の譜『さらば急行能登』B

2011年03月11日

 さて、『能登』の入線時には、これまたホームの端までものすごい人だかりとなりました。駅員がヒステリックに、「白線まで下がって下さい!」と怒鳴っています。
 古き良き昭和の鉄道を振り返る『ノスタルジックトレイン』という雑誌にかかわったので、往事の国鉄の鷹揚さを聞き知るにつけ、いまのJRの「固さ」に物思うところがないではないのですが、それにしても昨今の「〇〇鉄」各種のモラル低下ぶりには呆れることもあり、駅員の気持ちも分からなくはない、と思ってしまいます。
 ということで、『能登』の写真は先頭車がなく、車内とボディのみでご容赦を。また、十数年使いなじんでいたフィルム式一眼レフが故障して、この『能登』乗車のために急いで買ったデジカメのため慣れておらず、せっかくの型番が光って見えにくい点も、重ねてお許しのほど・・・。
    IMG_0127.JPG
                             IMG_0130.JPG

 発車15分前には、グリーン車も満席となりました。トイレに行く時のことを考えて、ビールは少なめにしてあります。普段は妻と二人連れだから、さして気にすることはないのですが、満席の二人掛けでは、そうおいそれと隣の人の足をまたいでトイレに行くわけにもいきません。
 この列車は、489系で運転されています。『白山』として碓氷峠を越えていた編成です。十数年前、開業まもないほくほく線の『はくたか』で高岡へ向かった時、直江津を発車したところで、左手から信越の山を下りてきた白山色を見た印象が、いまも鮮烈に脳裏に残っています。
 また碓氷峠と言えば、交流区間に入らない189系の一部には、グリーン車3列席(つまり片側は一人掛け、「グレードアップあずさ」あたりから始まったやつです)も存在しました。無い物ねだりではありますが、もしこの車両が一人掛けなら、好きなだけビールが飲めるのに、と思ってしまいますね。ただそうしたら、明朝下車する時がきわめて危険です。朝5時1分に泊に着いて、折り返し5時8分発の急行『きたぐに』で糸魚川へ戻る予定にしてあるのです。
 あまり飲みすぎたら、雪が凍りついていそうな泊駅の階段が危ないし、あるいは富山、金沢まで乗りっ放し、などということにもなりかねません(実は経験者、それも若山牧水ばりの)。今日はこれでちょうどいいのかな。今ではノスタルジーそのものと言っていい489系のモケットに身を沈めて、胸の中でつぶやきました。
                 IMG_0129.JPG
posted by 小田原漂情 at 22:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 漂情旅日記篇

旅と鉄道の譜『さらば急行能登』A

2010年10月14日

IMG_0121.JPG機関車と連結されている8号車の写真を掲載しました。この客車もラインは白ですね。ところで前回から、「ライン」とか「ゴールド」とか書いているので、気になった方もあるかと思います。専門的、もしくはマニア的には、「白帯」「金帯」と言っているものですね。
 実は連載開始早々であり、かつ「塾」のホームページから入る方が多いと考えて、より多くの人にわかりやすい言い方に、ちょっとこだわりました。また私の年齢では(来年4回目の年男)、「帯」という言葉に、グリーン車のマーク化前の太い帯の印象が強く、その意味でもアクセントをつけたかったという背景があります。
 さて、それはともかく、「白」と「金」の区別について、解答を発表します(いわゆる「鉄」のみなさんには、”問題”にさえなっていなかったと思いますが・・・)。「白」は普通の二段式寝台のB寝台、「金」は1輌がA個室寝台、3輌がB個室寝台「ソロ」でした。8輌編成中に個室寝台が4輌も連結されていたとは、何ともぜいたくな寝台列車でしたね、『北陸』は。
 また、ここで「8輌とはずいぶん短い、さびしい」もしくは「ぜいたくといっても食堂車がないんじゃね」などと思われた方、古き良き時代を知る筋金入りの鉄道ファンかと思います。どうぞ今後ともご贔屓に・・・。
posted by 小田原漂情 at 14:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 漂情旅日記篇

旅と鉄道の譜『さらば急行能登』@

2010年10月02日

IMG_0119.JPG 『言問だより』の初期の号にも、「漂情先生ひとり旅」や「旅で出会った人・もの・宿」などのコラムを載せていますが、昔から旅が好きです。第四歌集『奇魂・碧魂』の中には、「旅は私のいのちである」という意味のことを書いていますが、同書の作品の執筆期間である32歳の時に、国内の全都道府県を歩きおおせた記念の意味を含んでのことでした。
 「塾」の仕事を始めてから、旅にはあまり行けません。が、教師のこころにゆとりと温もりが必要なように、このホームページも、つねにいくぶんのうるおいを含んでいる方が、より子どもたちのためになるでしょう。
 そんなわけで、わずかずつではありますが、旅と、その際に欠かせない「足」であり「友」である鉄道にまつわる文章と写真など、ご紹介していきたいと思います。

IMG_02.JPG 今年の冬は、3月限りで廃止となる北陸本線金沢行きの『北陸』『能登』が話題でしたね(『能登』は季節列車としてしばらく残ることに)。2月の雪の夜(降雪は上越線沼田以北)、『能登』で糸魚川まで行って来ました。
 ご覧の通り、廃止一ケ月前と言うのに、『北陸』の発車する13番ホームは昨今言うところの「撮り鉄」で一杯(上の写真)。私は手前の『能登』を待つ16番ホームにいたわけですが、もちろん『能登』の入線時には、こちらも同じ状態になりました。
 左の写真は、1号車と2号車の連結部分。右側の2号車のラインは、白ではなくゴールドですね。『北陸』にはこのラインの入った車輌が多くありました。改めて時刻表を見直してみると、8輌編成中の4輌が、該当したようです。さて、このラインの違いは、何を意味しているのでしょうか。


posted by 小田原漂情 at 07:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 漂情旅日記篇